「そんなキャラだったっけ」と言われた君へ
「陰キャラ」と「陽キャラ」なんてくだらないスクールカースト判定。
他人にとっての「あなたらしさ」が存在している。他人によって判定される自分の「キャラ」というもの。
キャラに沿って生きれば、自分の個性は剥奪され、自分らしさと、他人が定めるキャラとの間に広がる溝に苦しむことになる。
一方、自分らしさを全面に出せば、他人の思うキャラと違うということから、からかわれたり、色んな苦痛を伴うことになる。
私は、所謂「いじられキャラ」だった。いじめられていた過去とは別に、いじられていたことがあった。
「自分絶対ドМやん」
「だって、いじられて喜んでるもんなあ」
なんて言われながら、ヘラヘラと笑っていた。
私は、確実に彼女等の「玩具」であった。
都合の良い時に呼び出され、好きなようにいじられ倒していた。
あの頃の「わたしらしさ」というのは、彼女等によって形成されていた。自分の性格なんて関係なく、彼女達に求められる「自分」でいることに必死だった。
そして、あれから歳を重ね、赤髪になって、全身カラフルな洋服に身を包み、「こんな自分が好きで堪らない」と放つ今の自分に、
こんな言葉を投げかけられた。
「全然キャラ違うやん」
そう、今も、私の「キャラ」というのは、あのいじられっこのままだったのだ。人間は誰しも成長していくが、こうして、内面の成長に欠ける人を見るとなんとも残念な気持ちになった。
「お互い成長して、分かり合えるかもしれない」と思っていた自分がいた。
しかし、それは希望を持つが故の妄想に過ぎなかった。
彼女達の全員が本当に心の底から楽しんで自分をいじっていたのかは分からないが、他人のアイデンティティーを踏みにじる趣味の悪い遊びを娯楽だと思っていたのであれば、分かり合えなくて正解なのかもしれない。
世間は流行りを気にしすぎている。
そして、どう見られるか、
自分の価値は何か。
どんな風にふるまって、どんな見た目でいるべきか。
そう、
どんな「キャラ」になるのか。
考える。
いじめっ子が存在するから、私達は本当の自分を曝け出せないのだろうか。
両親が堅物だから、好きなことを我慢するのだろうか。
「今年の流行りはコレ」というレールに沿うのは、自分に自信がないからだろうか。
いつから、私達は他人が決める「美」の上を歩きたいと思うようになったのだろう?
忘れないでほしいのは、自分は特別だということ。
キャラが違おうが、見た目と中身にギャップがあろうが、
「自分らしく」生きる大切さを知ってほしいと思う。
こうならなければいけないと考える前に、
自分らしさと向き合ってほしい。
本当は何が好きで、
どんな格好をしたくて、
どんな人と一緒にいたいのか。
「そんなキャラだったっけ」なんて言われても、
好きなものに身を包み、自分を愛せた人は強い。
くだらない、モノサシで測られても、
自分は唯一無二だと言ってやればいい。
自分だけの個性が誰かに評価されていい理由なんてない。
p.s
今は青髪です。
文字を書くことが生き甲斐です。此処に残す文字が誰かの居場所や希望になればいいなと思っています。心の底から応援してやりたい!と思った時にサポートしてもらえれば光栄です。from moyami.