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差別と区別の話

あるおじさんが、こんなことを言っていた。


「差別と区別は違う。」

「日本には差別はないが、区別はある。」

「日本ほど差別がない国はない。」

「区別はされても仕方がない。」





そもそも、「差別が存在しない」と判断する人は、自分が差別をされたことがないだけだと私は思っている。



どの問題も言い切ることはできない。


こんな人はいない。

そうやって言い切ることは、自分が100年生きた後でも何の根拠もないことである。


しかし、次に出る言葉は決まって「割合」という単語だ。



「これは、割合の問題だ」



おじさんはそう言った。


日本では極端に差別している人が少ないと。



この時点で、「差別はない」と言った自身の意見と矛盾しているが、まあ酔っ払いなので、、、

大目にみてあげましょう、、、








そんな時、店主がおじさんにこう言った。


「じゃあ区別だったらしても良いの?」




おじさんがこの時、区別をするということについてどう考えていたのかは分からない。しかし、「私は彼らを区別しただけだ!」と言っても、「差別された…」と感じる人もいるのだ。


同じ人間であるという事実が前提であり、そこから何故区別する必要があるのか?



そしておじさんはこう続けた。



「僕は、自分が海外でカフェを経営したとしても白人は雇うけど黒人は雇いません。」



「でもこれは区別だ。」




白人と黒人に対する差別問題は誰もが知っていることだと思う。

しかし、こういう風に経営の為に取捨選択することを、区別しているだけだと正当化する人もかなりいるだろう。



私は、”おじさんみたいな人”も、まだ、日本にたくさんいるのだろうと、地中海カレーを食べながら考えていた。





区別をしなければいけない世の中は悲しい。


そう思う。




おじさんはきっと、歴史をよく勉強してきた人だったのだと思う。

無意識なのだろうけど、「昔より」「飛鳥時代よりも」「500年前は」と、常に今以前の出来事を引き合いに出していた。



そしてこうも言っていた。



「私は間違った教育を受けてきた」




そこから第二次世界大戦の話になってしまったが、

私の頭の中は、何がどう間違えていて、何がおじさんの中に差別と区別の認識を作ってしまったのかという疑問でいっぱいであった。



「私はこの人を区別しただけです。」

という人はいても



「私はこの人を差別しました」

という人を私はまだ見たことがない。





「区別」という認識の下敷きにされてしまっている「差別」を私たちは、見過ごしてはいけない。






なんか色々書こうと思ってたことがあったけど、読み返すと結局上記の一文が言いたかったんだわってなったので、この辺で。






p.s


おじさんにお酒2杯と地中海カレーをご馳走になりました。
















文字を書くことが生き甲斐です。此処に残す文字が誰かの居場所や希望になればいいなと思っています。心の底から応援してやりたい!と思った時にサポートしてもらえれば光栄です。from moyami.