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もやブロ#32 社畜から起業家になった訳〜エイヤー力の話〜

こんばんは。かれこれ4ヶ月も更新を止めていました。きら星のもやです。

私は「誰もが好きなまちで暮らせる社会を作る」ために、移住促進させるための手立てとして、地方の仕事紹介やらテレワークなどのワークライフスタイルを広められるように事業活動をしております。

社畜だった私が起業家になったワケ

最近、スタートアップ系のイベントに登壇依頼がいくつかあって、どういう経緯で起業したのか?と聞かれるので、ちょっとまとめてみました。いや、まとまらないかもしれません。何が起こって起業しようと思ったのか、過去を振り返ってみることにしました。

私は、魅力的な"地方"を人口減少という日本の社会トレンドで消滅させたくない!というのをミッションにしています。
ですが、これ、実はサラリーマン時代からずっとテーマに掲げて取り組んでいたことなんです。

前職は「イオンモール」という会社で、大型商業施設のリモデルやリボーンといった特殊な開発を「プロパティ・マネージャー」という立場でやっていました。
イオンモールで勤め始めた理由も、商業開発を通じて地方の活性化に取り組みたいという想いから。
仕事にはとても誇りを持っていましたし、会社を通じてやらせていただいたビジネス経験の多くに本当に感謝をしております。

私のかつてのワークスタイルは、
働きマンの松方

いつかティファニーで朝食を、の麻里子

2人の真ん中くらいの社畜っぷりで。
没頭してたらいつの間にか夜になってても平気だし、出張いつでもオールオッケー、彼氏より仕事、土日もショッピングセンターの視察に費やし、頭に浮かぶのはいつも仕事のこと…
みたいな感じでした。

さいしょの転機は産休

私が産休に入ったのは2015年。
34週まで出張に行き、6ヶ月で職場復帰したクソ社畜野郎にとっては産・育休はかなりシビアな時間でした。何がって、ともかくヒマだったのです。育児はそれなりに大変ではあるが、なんかしら仕事がしたかった。

当時は流山市に住んでいて、今や流山の輩出したすごい人になっている尾崎えり子さんやTristに集まる方々との関わりを持ってみたりしたことは一つ大きな転機だったように思います。

自分のできることで、自分の周りを変える。そんなことを実践している人たちとの交流。

当時は「2枚目の名刺」という言葉が少しずつ認知され始め、「プロボノ」という関わり方についても萌芽期で全然プロジェクトがないような状態でした。
地域のために、とか、子どものために、とか、色々と活動されている人にも出会ったのですが、やっぱり私は仕事をしたかった。
しかも、ボランティアじゃなくて、ちゃんと経済活動として回るものを。付加価値の高いものを。社会に影響を与えることのできるものを。

コンサルティングで稼ぐ経験

暇だった私がやり始めたのは、ビザスクでした。

商業施設での勤務経験からアドバイスできることはたくさんありました。小売店舗への出店戦略などのアドバイス、リアルの商環境におけるトレンドの話、設備計画やエネルギーなどの話から、イベント運営に関わることまで…

大手コンサル会社がリピートで顧客になってくれることもあり、1時間あたりの自分のノウハウが5万円以上の対価をもらえるものだと理解しました。(当然ですが就業先の営業情報とかは話しちゃいけないことになってるので、あくまで公の情報に基づくことばかりではありましたが…)

この辺から、意外と起業できるのでは?と勘違い?し始めた気がします。

社畜のデメリット・辞令は突然に

起業しよう!と腹をくくったのは復職後のことでした。

私は、営業の最前線にいることが好きで、リーシングや店に出てマネージャー達と切った貼ったする仕事が一番好きです。それか、この店をこうしようと妄想膨らましてプランニングの資料を作っているような時間が。
私がプロジェクトに入ると、チームの目標達成にあらゆる方向からコミットできたので、同僚達から必ず喜ばれたし、それがまた仕事のやりがいにもつながっていました。

2016年、復職した私に与えられたミッションは「会計業務をサポートすること」でした。プロパティマネジメントとして数値の管理は、非常に大事な仕事の一つです。預かっているお金を、正しく運用して、正しい帳簿を作り、経営データに反映させる。フィードバックする。
頭では分かっているものの、今までみたいに出張もできない、ルーチンワークで決められている…そんな仕事の進め方は苦痛でしかなく。

でも社畜である以上、やるしかないじゃないですか。辞令ってそういうもんだし。

だけど、それでいいんかね?と疑問を強くしたのは復帰後の1年間の経験でした。

違う人生を考えるキッカケ

会計の仕事をしたのは丸一年。
明けてからは、営業本部長付、という謎の肩書とミッションで事業の整理をしてました。
やったことは、自分が産休前、手塩にかけてリニューアルした物件2つのクロージング。

クローズするということは、そこに勤めていたメンバーを切ることにもつながるわけです。無期雇用の社員であれば単に配置転換でいいんだけど、パートで頑張ってくれていたメンバーは必ずしもそうはいかない。
現場の社員にも、クローズを悟られてはいけない。管理職にだけは伝えるけど、撤退のための段取りや交渉は本部の私で引き受ける。

このプロジェクトは1年でカタをつける必要があったので、慎重かつ大胆に、そして時には役員にも箴言申し上げるなんて30そこらの社畜としては大それたことをやらせてもらって、本当にいい経験になりました。

それと同時に、人間と仕事について深く考えるキッカケにもなりました。
また、開発が地域に与える影響についても、深く考えるキッカケになりました。

この1年、悩んで悩んで悩み抜きながら、そしてほぼ上司や仲間不在という中で、戦略を考えなければならないという環境が、私を会社から離して行ったように思います。

会社を辞めるのはエイヤーだった

クロージング稼業で、悩んだ結果、ひと段落したら自分なりに地域貢献ができる会社を作ろう。そこでは人を大事にして、みんなが生き生き働けるようにしよう。そんなことを漠然と考えるようになりました。

そうした中で、自分が何をやっていきたいか。深掘りして出てきたものが、初期のきら星モデルの着想でした。

以前にも触れたかもしれませんが、まちづくりをしたいと思ったキッカケを作ってくれた湯沢町に恩返ししたい。という思いもあり、移住促進の仕組みを、ターゲット層を首都圏の相対的貧困層に絞って、スキーム作りをするというプランでした。

それをビジネスコンテストにぶち込んで、「たぶん通ると思うんで、優勝してプロジェクトも完了したら辞めます!」とは偉い人に高らかに宣言して、新潟まで行ってきたわけです。

いま考えればなんか狂っていたというか、根拠のない自信に溢れていたというか、恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいなんですけれども、そんな勘違いとともにエイヤーしてしまう力、が私を起業へドライブさせたんでしょうね。

まとめ

寝ても覚めても仕事だった会社人間の私が
なぜ起業家になれたかというと
紆余曲折あるものの
結局はエイヤーだった…という話です。

オチはありません。

「魅力的なまちで溢れかえっている世界を」作り「地方で暮らす人を増やし消滅可能性都市をなくす」ことをミッションに動くまちづくり会社社長。湯沢町で暮らす2児の母でもある。