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Elephant Talk
ぼくの職場の長年勤めたおじさんが近々退職するということで、その送別会を行うためのお店の下見に誘われた。
下見というのは名目で、みんなたぶん単に飲みたかっただけだと思う。
幹事は別部署の人なんだけど、まずぼくの上司を下見に誘ったあとでぼくに「このままだと2人きりになっちゃうんでお願いできますか?」と言って誘ってきた。じゃあ最初から上司を誘うなよと思いつつも、仲良くしてる人でもあるのと、うちの上司が飲み会に参加するのはレアなので快諾した。
案の定、送別会の場所に行って確認、予約をしたあと別の店へ行って飲むことに。
上司が車を出してくれたので上司は飲めない、ぼくは体質的にそもそも飲めない、でも幹事はザル、という妙な状態に。
ついでだから、ということで何人か呼ぶことになり結局5人で5時間くらい飲んでいた。
仕事に関わるいろんな話をしている中で、上司に「もっちさんの、そのコミュニケーション能力はどうやって身につけたのか、元からなのか」と聞かれた。
「コミュニケーション能力が高いかはわからないけれど、昔から同年代より年上か年下との交友が多い気はする」というぼんやりしたことを言ってその場は流れた。
ちなみに上司とは1つ違いなんだけれど、ぼくから見れば「あなたの、その落ち着いた大人っぽい風格はどうやって身につけたのか」と返したくなるくらい落ち着いている人である。あと、いろんな人にモテる。
ぼくは身なりにほとんど構わないので、上司と一緒にいると見た目の差がすごく、絶対同い年くらいと思われてない自信がある(?)。
上司にコミュニケーション能力が高い、と思われている要因の1つは「他部署の人と仲がいい」ところを見てのことかな、と思う。
ぼくの部署は上司とぼく、そして今回退職するおじさんの3人しかいないため、手が足りない時は他部署に応援を頼んでいる。だいたいその際にお願いする人は決まっており、だいたいおばちゃんである。みなさんぼくより経験があるので現場のことをよく分かっており、学ぶことの方が多い。
お互い知らないことや仕事内容を聞いたりする中で「自然と」身の上話になる。仕事上の話よりどうでもいいそういう話の方が多い。
昔の男の話やら子供の結婚がどうとか、ほんと業務とは無関係などうでもいい話なわけだけれど、そういう話をどう話しているかでその人の考えがよく分かる気がする。
箇条書きにすれば重い項目だらけになるようなことでも、笑い話にして話されると、こちらとしても聞きやすいし、茶々を入れることもできる。
そうやって話を聞いたりしたりしてるうちに「話がわかるやつ」って思われてるんじゃないかなー、と思う。なので結果的に仲良くなる。
愚痴を言うにしても「どうすればいいのか」「こうすればいいのに」っていう、より良くしたいといった前向きな考えがあれば聞いててあまり嫌ではない。ぼくも一緒に「こうしたらどうだろう」とか意見が言える。
「嫌だ、わからん、やりたくない」ばかりの愚痴は「じゃあ辞めればよろしい」としか言えないし、聞きたくない。闇落ちの道連れは真っ平だ。
で、ここで先程のコミュニケーション能力のことを考えたとき、これってぼくがそういう能力を持っているのではなくて、むしろぼくの周囲が相手にうまく伝える力を持っているからなのではないのか。まぁでもその力の方向は上司などへも向いているはず。
そしてもう1つの要因として考えられること。
仕事上、いろんな人のお悩み相談的なことを年中やっているのだけれど、今まで何年も上司や退職するおじさんとはあまり話をしなかった人がぼくには話すようになってくれた。
当然ぼくだけの力ではなく、今までの積み重ねやタイミングがあってのことだとは思うんだけれど、たぶん上司らと決定的に違うだろうなと思い当たることがある。
ぼくが「個人として仲良くなろうとしている」ということ、だ。
基本的に、この仕事では相談者と友達になることは良くないと言われるらしいのだが、ぼくが今の仕事に入った当初はそういうことをキッチリ教育されなかった。「自分なりの方法を探してみて」と言われたので自分なりにたどり着いたのが、仲良くなること。
ぼくの場合「どういうことで困っているのか」「どういう考え方をしているのか」というのを聞こうと対話していて、細かい心情やニュアンスを知ろうとすればするほど、聞き方のノウハウを持たないので砕けた言葉遣いになる。少なくとも周囲から見れば友達と話しているようなやり取りに見えるかもしれない。そうしている中で、ポロっと「実は...」という本音を話してくれる瞬間がある。
同じ「できない」という訴えであっても「〇〇だから」という理由の部分は千差万別だし、そこに至る思考の流れもいろいろだ。その流れを聞き出すために問題以外のことを話していって、そこに共通する基本的な思考のクセを見出す必要がある。
当然、他の人も同じようなアプローチをやっているとは思うのだけれど、見ていると「仕事として」向き合っている感じをすごく受ける。しっかりと相手との間に線引きをして遠くから観察しているような感じ。互いのやり取りも整然としているし、必要な情報も引き出せているので効率もいい。
しかしぼくは利害関係のないクラスメイトと話すような感覚で向き合っている。つまり仕事と思ってやっていない。お互いの気の向くままに話しているので効率が悪い。ただ、自然な流れで相手の思っていることを引き出せている気はするし、文脈もあるので「この場合は相手はどう考えるか」ということの想像もある程度できる。
方法としてこれがいいのかはわからないが、あまり良くない気もする。でもそうなっちゃうからしょうがない。
しかしこれもまた「たまたま相手の考えに共感できたから」と考えると自分の力でもないな、と思う。実際ぼくにも苦手な人はいるし、そういう人とはあまりうまくいっている感じがしない。
本音が聞けたのも、それまでの観察者としての視点で蓄積された情報をぼくが踏まえてのことなので、どっちが優位というものでもない。
つまり、当たり前のことなんだけど、コミュニケーションというのは個人で成り立つものではない。「相性」と言うと雑だが、相性のような動かせない部分が大いにあると思う。
技術や話術といったものは学習して身につけることができると思うが、その人自身の持っている感覚のようなものはそうそう変化しない。話を聞いて受け取る方に受け取れる感覚が無ければ、いかに上手に話をしたところで「理解できない」。
ぼくは割と大人の中で育ったので、同年代より年上か年下と話すことが多かったのだが、特に10代後半以降は無駄に多くの年上の人と関わるようになり、SNSで年下と関わることが増えたりする中でそういう傾向が特に強くなった気がする。
同年代との付き合いは共通項も多くて楽しいのだが、それよりも自分と違った世代・世界の感覚、考え方に触れたり知らないことを知ることの方が楽しい、という感覚が身についてしまった。
というわけで、上司の質問「コミュニケーション能力をどうやって身につけたのか」への回答は「そういうふうに育ったから」かなと思う。
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