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ピクニックは楽しむべきだった

6月2日から4日間、英国ではエリザベス女王在位70年をお祝いするプラチナ・ジュビリーのお祭りが開催され、4連休であった。5月の終わり頃、家の中にチラシが舞い込んだ。プラチナ・ジュビリーを祝う、近所のピクニックのお知らせだった。へえ、面白そうだな、その時はそう思った。

エリザベス女王の公式の誕生日(本来は4月21日が誕生日だが、英国は6月が一番季節が良いということでお祝いをする公式の誕生日は6月に定められている)をお祝いする恒例行事のパレード、トゥルーピング・ザ・カラーの様子をテレビで見た。ものすごくたくさんの人たちがパレードを観覧していた。そして、エリザベス女王と王室ファミリーがバッキンガム宮殿のバルコニーに現れ、赤・白・青の煙を出しながら、エアフォースワンが空を舞った。天気にも恵まれ、テレビ越しに見ているだけでも、とても気持ちの良い光景であった。けれど、そんな女王をお祝いするイベントに、積極的に参加しようと思えない自分がいた。英国やコモンウェルスの人たちは自国のお祝い。けれど、同じように女王陛下のことを誇り思う気持ちが、自分にあるだろうか。私は英国に住んでいても、英国人ではない、日本人なのだ。

結局、近所で開催されたピクニックにも行かなかった。日本人の自分が参加したら、周りの英国人はどう思うだろうか、そもそも英国人しか参加しないのではないか。そんな気持ちになっていたのは、ちょうどこの本を読み終えたばかりだったからかもしれない。

米原万里さんのエッセイ『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』



米原さんのことを、ここでは文中に登場する呼び名のように、マリさんと呼ばせてもらう。マリさんは9歳から14歳まで、プラハのソビエト学校に通った。父親が日本共産党から派遣され、『平和と社会主義の諸問題』という雑誌の編集局で働いていた。エッセイの中では、学校で出会った3人の友人たちとのお話が描かれている。ギリシャ人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤースナ。

軍事政権による弾圧を逃れ、一家でギリシャから亡命してプラハに辿り着いたリッツァの家族。リッツァはまだ祖国ギリシャで暮らしたことがなかった。それでも、自国の海の青さを誇らしげに話すのであった。

ルーマニアの特権階級の家庭に育つアーニャもまた、自国ルーマニアを知らない。それでも、ルーマニアへの愛国心は人一倍強い。

優秀で絵画も得意なヤースナ。祖国の地ベオグラードの美しさについて饒舌な発表を披露し、生徒たちの興味を集める。

彼女たちが自国を誇る気持ち、よくわかる。私も日本を離れて数年の頃、日本は素晴らしいところなのだと感じた。以前はヨーロッパに憧れ、ヨーロッパの方が日本より優れいていると思い込んでいたのに。日本を離れたからこそ感じた愛国心が自分にもあった。

このエッセイが読者を惹きつける最大の鍵は、消息もわからないままマリさんが現地へ赴き、この3人の行方を探すところにある。 

プラハから日本へ帰国し、30年の月日が流れる。マリさんがロシア語の通訳として活躍する一方で、プラハをはじめ、ルーマニアやユーゴスラビアにも民主化の波が押し寄せていた。プラハに残っていると聞いていたリッツァは、チャウチェスク政権が崩壊したルーマニアにいるであろうアーニャは、民族紛争が勃発したユーゴスラビアにいるであろうヤースナはどうしているのか。心配に駆られたマリさんは、まずプラハへと旅立つ。

「プラハの春」でのワルシャワ条約機構軍の侵入、「人民宮殿」と呼ばれた豪奢な邸宅で暮らしていたチャウチェスクの処刑、一方で政権崩壊後も尚、貧困に喘ぐルーマニアの国民たちの現状、民族紛争でアメリカ・NATO軍による空爆を受けたセルビア。これまで文献を通してしか知ることのなかったこれらの出来事が、マリさんの友人が生活しているという事実を通して、自分の心の中へもより現実味を帯びて侵入してくる。無事であることを祈りながらページを捲る。

3人は無事だった。けれど、幼少期の頃の愛国心は、違う形となっていた。

リッツァもアーニャも、あれほど強い思いを抱いていた祖国には住んでいなかった。ルーマニア人であることに誇りを抱いていたアーニャは、再会したマリに言った。

「私の中で、ルーマニアはもう10%も占めていないの。自分は90%以上イギリス人だと思っている」

ルーマニア人が外国人と結婚することなど、不可能に近いほど難しかった当時、特権階級の父親はチャウチェスクに頭を下げ、アーニャのイギリス人との結婚を許可してもらった。政権崩壊後もまだ贅沢な暮らしを続けいたアーニャの両親、それに対して貧しい生活を強いられている国民。そんな国民に対して同郷の気持ちや後ろめたさを感じることなく、イギリスで暮らすアーニャだった。

ユーゴスラビアにいた、というだけではなく、何民族なのかがヤースナの行方を探す上で重要であった。そして、彼女はボスニア・ムスリムであることが判明する。

結婚して家族と幸せな生活を送っているように思えたヤースナであったが、別の民族だったというだけでかつての友人を失い、生活のすべてがいつ破壊してもおかしくない状況だと語るヤースナは、すっかり心を痛めていた。そして、マリさんは尋ねた。亡命を考えたことはないのかと。彼女は答える。

「私にはボスニア・ムスリムという自覚はまたく欠如しているの。じぶんは、ユーゴスラビア人だと思うことはあってもね。ユーゴスラビアを愛しているというよりも愛着がある。国家としてではなくて、たくさんの友人、知人、隣人がいるでしょう。その人たちと一緒に築いている日常があるでしょう。国を捨てようと思うたびに、それを捨てられないと思うの」

私が日本を出て、ヨーロッパで暮らし初めてから、長い年月が経過した。私は、自分が日本人であるということを捨てることはないだろうと思う。でも、それはなぜか。日本という国家が好きだから? イエスともノーとも言い難い。けれど、私を産んで育ててくれた両親、生まれた時からずっと一緒だった姉、友人や仲間たち、その人たちと培った絆は絶対に捨てられないと言い切れる。

プラチナ・ジュビリー4連休最終日の夕方、家のドアをノックする音がした。ドアを開けると、そこには黒人の女の子がいた。

「ハロー、この間そこでネコのことを尋ねたことがあるのだけれど」

彼女は明るい笑顔で言った。もちろん覚えている。ちょうどゴミを捨てに外に出た時、ネコを飼っているのかと尋ねられた。彼女は、外から見える窓越しに置いてあるネコのポットを見て話しかけてくれたのだ。私のnoteのアイコンにも使っている白ネコのポット。それは、かつての愛猫を象ったもの。ほんの少しのたわいのない会話だった。でも、どうして今私を訪ねてくれたのか、思案している私に向かって彼女は続けて言った。

「ただ、あなたにハローって言いたくて。さっきピクニックに来ていなかったでしょう」

ピクニックは楽しかったと嬉しそうに話し、少し会話をすると、じゃあね、と元気よく言って去っていった。

突如現れ、温かい気持ちを届けてくれた女の子。ただただ嬉しかった。日本人の私が行っても場違いなのではないか、なんて思った自分が情けなかった。どこの国の出身かなど、関係なかったのではないか。この地域で生活する仲間として、楽しい時間を過ごすことが大切だったのではないか。ピクニックは楽しむべきだったのだ。


本日も長文記事にお付き合いいただきありがとうございました。

米原万里さんは、2006年闘病の末56歳で亡くなられました。
今の状況を、遠い空からどのようにご覧になっているのでしょう。

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