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2024/03/02(土)の記録

当日21時更新えぐい

無理だな〜と開始3日目にして思いました(おい)
なぜなら、私は一度ネットを見ると、やれYouTubeやらXやら、いわゆるSNS依存のような行動をしてしまい、noteを開くことなく日付変更線を超えてしまうのです。だから、考えました。昨日のことを思い出しながらnoteを書く形式にしよう、と。やりたくてやっていることを、義務化した時の面倒臭さ異常ですね、すごいな・・・

ということで、これから昨日ないしは1週間をまとめて書いたり、自由にやります✌️う〜〜〜〜、大丈夫そ?


カマクラ・ナイト

この数年、生で聞いてみたいなと思っていた、音楽家の笹久保伸さんのライブに、昨夜行ってきた。アルバム「CHICHIBU」等からの既存曲・笹久保さんの友人の作った曲、思い出の曲、そして今年5月にリリース予定のアルバムの中から、1曲新曲を披露。笛奏者の方も一緒に何曲か、演奏されていて、最後のコロンビアの楽曲は、今この土地というか世界で右往左往しながら「今」を生きている人間の為の音楽だなと感じ、これを〆に持ってくるのが、夢から醒ますというか現代社会で暮らす為の元の定型文的な世界の解釈に戻されたというか、とにかくニクイなと思った。個人的には、5月に出る新曲と、Para sula にNanaという笹久保さんの友人が作った曲、笹久保さんが南米留学していた時によく弾いていた曲が、特に好きだっった。まるで大地の振動が伝わってくるかのような感覚なのに、それが演奏されている土地・鎌倉のものとは思えない。何か空恐ろしいような気もしてきなくもない。この感覚に似たものは、とある写真家さんと葉山にご一緒した時に感じたものと近いかな?と感じつつも、どこか、やはり、違った。

その人によって、土地が私に見せてくれる姿が全く変容することがある。それと、たまに、自分が撮ったもののなかで、実際の土地との感覚とはかなり違ったものになっていたりすることもある。しかし、後者の出会いよりかは、前者の異様さの方が勘違い率が低く、又ヒット率が高い。(なんだそれは、と思った方。御来光の感覚です)あの力はなんなんだろうと思う。また、いつも私は人にそういうイリュージョンを見せられていてばかりで、人に対してそういう力を持っているのか、ということを考えると、本当にコンプレックスがあるというか、自信がないのだ。

写真 の はなし

笹久保さんの身体を見ていると、私が写真を本格的に好きになった原因の作家さんの身体を見た時に感じた感情と似ていたことを思った。一般的には、多分、小柄、と評されるかもしれないけれど、その佇まい。その写真家さんと笹久保さんのは「別物」だったが、世界を呼び出せる人(作家さん)とはこういう感じなのか、といつも羨ましさというか、なぜ私はこうなれないのかなと思ってしまう。私も同じ人間なのだから、私の中にも同じ可能性があるはずなのに、そう思って自分に固執すると、途端に自分の写真が狭く息苦しくなるような感じ。誰か助けて、というか、私が私を一刻もはやくどうにかしたい感覚。私が自由になれるはずのところにまで、そういう私が顔をよく出し始めたことも、治療を開始する理由の一つかもしれない。感動をまっすぐ撮れないのは始めた時からだったが、そういう自分に飽き飽きしてしまった。同じところをぐるぐる回っている感覚。限界を感じた。

焦ると同じところをますます加速して進んで回っていくような感覚もある。それが怖い。呪いのようなものをとかなければならないと強く感じている。たとえその先が写真を撮らないということになったとしても、私は私を救いたい。もっと広い世界があるのなら、見せてやりたいし解き放ちたい。

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