気まずい空気で駆け抜ける。映画「ロスト・ドーター」
め~め~。
映画の楽しみ方は本当に色々ありますが、映画「ロスト・ドーター」は、圧倒的なまでの気まずさを楽しむ映画となっています。
映画を見始めると、序盤からラストまでずっと居心地の悪さが付きまといます。
嫌悪感が強いだけの映画ですと、途中で見るのとをやめてしまう方もでてくるかと思いますが、「ロスト・ドーター」は、主人公がどういう目的で行動しているのかが気になってうちに、見終わらないと落ち着かなくなってくるという珍しいタイプの作品です。
その事実をなかなか明かそうとしないことで、早くこの不安や恐さを解消してくて、映画を止めることができなくなります。
なぜ、そんな気分になってしまうのか。
居心地の悪さを含めて、ネタバレは極力少なくしつつ、感想を述べていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
避暑地にて
主人公であるレダは、ギリシャのとある避暑地に一人で来ています。
はっきりとした理由は語られず、仕事について聞かれても「教授よ」としか答えません。
何か訳ありな雰囲気はありますが、特に何があるというわけではありません。
エド・ハリス演じる用務員のおじさんが、アドバイスをしてくれたりしています。
そして、レダは水着を着てビーチで一人くつろぎます。
これだけ見ると、本当に避暑地でゆっくりしているだけの映画です。
ですが、レダがゆっくりしているところに、騒がしい一団がやってきます。
家族、親戚揃ってビーチに遊びに来ている、どちらかというと、派手な感じの人たちです。
ビーチは子供たちが走り回ったりして、にぎやかになります。
写真撮影をしたいから、今いる場所からよけて欲しいと頼まれるレダですが、拒否します。
正直言って、柄のいい人たちにはみえないのですが、レダは決して言うことをききません。
ビーチの御用聞き青年であるウィルは、その行動に対して賞賛しますが、その行動が蛮勇の類であることは、否定できません。
「あなたは勇敢だ。場所を譲らなかった。でも、次は従ってください。彼らは悪い人たちだ」
トラブルまでは発展しないのですが、そんな一団がいる中にも関わらず、レダはそれでもビーチに居続けます。
何か悪いことが起きそうな雰囲気が常に漂っているのが本作品の特徴となっていまして、その緊張は、柄の悪い人たちの集団の子供が行方不明になることで、さらに高まっていきます。
母親としての役割
避暑地のでのやり取りと並行して語られるのが、レダの過去の出来事です。
レダには二人の娘がいます。
若いころのレダは、夫と二人で家事や育児を分担しながら生活をしています。
当時であれば、家事を男女で分担するという発想そのものが先進的だったといえるでしょう。
ですが、レダは当時の時代にはそぐわないほどに自立心が旺盛な女性となっています。
おそらく、母親との確執があって、勉学に励むことによって、田舎の町や母親の支配から抜け出そうとしていた人物であるように語られています。
理由はわかりませんが、レダが若かった頃には、まだまだ女性が自立して生活するという時代ではなかったのは間違いありません。
そのため、ある意味やむ得なく結婚し、当然のなりゆきとして子供ができるわけですが、彼女は、そんな自分に常に違和感や不満を感じているのがわかります。
特に、娘が色々と母親の愛情を求めて行う要求に辟易しています。
「ママ、オレンジを蛇のように切って」
二人の娘は、特にやんちゃです。
レダは、夫との育児の分担に対して不満をもっていることもあるのだと思いますが、娘たちは母親の愛情を欲しがっているように思えます。
だからこそ、よけいやんちゃであり、時には、母親に対して反抗的な態度をとります。
「ママを叩かないで!」
レダが若かった当時は、女性が学術的な分野において活躍するのは難しい時代だったのは想像できるところです。
教授によって、自分の論文が取られてしまうこともあるでしょう。
そんな中、彼女は、夫がいるにも関わらず、自分のことを認めてくれた人物に対してとある欲望を抱くようになります。
マウントの取り合い
本作品で気まずいポイントはいくつもありますが、女性たちのマウントの取り方あいも恐ろしいです。
レダがビーチで出会うカリーという女性がいるのですが、その女性の誕生日を祝うという名目で一族がビーチに集まっていました。
その女性は妊娠中となっていまして、レダに対して、執拗に個人情報を聞き出そうとします。
「出身は?」
「お子さんは?」
ようするに、子供を産んだことがあるのか、今はどういうところに住んでいて、どんなステータスがあるのか、ということを聞き出そうとしているのです。
本作品においては、そんなマウントの取り合いのようなやり取りがちらほら登場します。
過去の記憶の中でも、旅をしている夫婦をレダ達が泊めてあげるシーンがあります。
「長く旅をしているようだね。年齢は。子供がいないと自由だな」
つまり、子供がいないから自由に旅ができるけれど、普通はそうはいかないわよね、とマウントをとっているのです。
ですが、あっさり
「いるよ、3人」
と言われてしまいます。
「人は子供の頃から義務に縛られてる」
その言葉は、本作品を言い表しているセリフでもあります。
ただ、その後に、レダとその旅人の奥さんと仲良くなるのですが、非常に怪しい雰囲気が漂います。
社会人として、これぐらいはしていなきゃダメだよね、という重荷を背負っているかどうかを確認して、安心したり、不安になったりしている、というのが、本作品を見るうえで、強烈に感じる印象となっています。
人形のメタファー
本作品において、人形が重要な役割を果たしています。
ビーチで行方不明になるのも人形。
若き日のレダが、娘たちに母親からもらった人形を上げるというのが、母親から子供に義務・責任を引き渡す、ということのメタファーともなっています。
しかし、レダは、自ら娘にあげた人形を取り上げて捨ててしまうなど、本作品における人形は、重要な役割を果たしているところです。
観客である我々も、人形の所在について、何度となくハラハラさせられることにもなりますし、「ロスト・ドーター」をみるにあたっては、はずすことのできない道具となっています。
娘を捨てる
さて、ここからはネタバレとなりますので、純粋に物語そのもののミステリアスさを味わいたい人は、一度、作品を見てから戻ってきてもらえればと思いますし、ネタバレがあったとしても、本作品の居心地の悪さと、それを解消したいと思う気持ちはかわらないと思いますので、納得の上、その先をご覧いただければと思います。
レダは、向上心があり、家族や社会的な役割、特に、母親という立場について、強い嫌気や重荷を感じている人物です。
そんな主人公であるレダが、ダコタ・ジョンソン演じるニーナを見つけて、彼女の姿に自分を投影していくという側面が、大変面白い内容となっています。
ニーナは、小さい子供がいますが、美しいです。また、ハンサムな旦那がおり、一見すると順風満帆に見えます。
レダは、そんな彼女がうらやましく、また、妬ましく思っているではないかと思います。
そして、彼女の娘である娘がいなくなったときに、ふいに、とんでもないことをしでかすのです。
その出来事が見つかるんじゃないか、どうして、いつまでもそれをもったままにするのか、というハラハラ感は、物語のほぼラストまで続くところとなっておりますので、一度映画を見た場合は、この結末を知るまでは、映画を見終えるわけにはいかない心境となってしまいます。
物語のラストのある意味、観客してみている我々からすれば、明らかに間違った告白を、レダは、ニーナにします。
かつての自分が犯したのと同じことをやっているのを彼女が見つけてしまったからに他ならないのですが、結局、彼女は理解者だと思って打ち明けるのですが、わかってもらえないで返り討ちに合います。
ケガをしながら彼女は、ビーチに行って横たわり、結局、捨てたはずの娘に連絡します。
「電話がないから、死んだかと思ってた」
このセリフから、もう、レダの避暑地での生活は、一種の放浪癖によるものだとわかります。
娘を放ったらかしにして、何もかもを捨てた経験のあるレダ。
彼女は、どこまでも自分勝手にしながらも、結局、娘を捨てられなかった主人公として、物語は終わります。
本作品は、非常に業の深い作品となっています。
人は義務に縛られる
レダは不倫もしていますが、何よりも、自分勝手に生きています。
それが悪いことなのかどうなのかというのは置いておいて、それらの役割であるとかは、いろいろな角度から重圧となって我々を襲っているはずです。
xx歳までにはxxをしなければならない。
他の人はこうしているのだから、自分もこうしなければならない。
すさまじいプレッシャーの中で、全てを投げ出した主人公の生きざまが見れる作品となっているのが「ロスト・ドーター」となっており、現代人の心に刺さりこんでくる作品ともなっています。
ハラハラする映画というのはたくさんありますが、モンスターや幽霊がでてこなくても、時限爆弾がチクタクしていなくても、本作品は、見終えるまでずっとハラハラが止まらない稀有な作品となっておりますので、ぜひ、居心地の悪さを味わってもらいたいと思います。
ちなみに、レダ役のオリヴィア・コールマンが最近出演した有名作品といえば、アンソニーホプキンズ主演「ファーザー」です。
表現力のある表情から、何を読み取ることができるのか。実力は女優の演技力も含めて面白い作品となっているのが「ロスト・ドーター」となっています。
以上、気まずい空気で駆け抜ける。映画「ロスト・ドーター」でした!
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