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アナタが好きな映画のカタリカタ

め~め~。

当note「ムービーメーメー」は、毎週木曜日の20:00に映画を中心とした創作物全般の感想&解説を行っています。

noteで行う前からも6年ほどブログを書き、noteに移行してからも毎週投稿を続けています。

「よく、そんな毎週書けるね」という人もいるでしょうが、これだけ、Netflexや、amazonprime、u-nextといった映像配信サービスが跳梁跋扈する中で、かつてに比べると断然作品に触れることのできる機会は増えたのではないでしょうか。

時には、はまりにはまって、一夜にしてドラマを数シーズン一気見して、寝不足に陥ったという人も少なくないでししょう。寝不足のまま仕事や学校にいって、眠い目をこすりながら寝てしまったこともあるでしょう。

しかしながら、そんなスキな気持ちや、面白さを誰かに伝えている人というのは案外に多くはないはずです。

「あの作品、面白かったー」

「あの女優さんが可愛かった。演技がすごかった」

といっても、同じ作品を見たことのある人であればまだ共感してくれるかもしれませんが、本当に、自分の気持ちが伝えきれたのか、という不完全燃焼感はきっとあるはずです。

どういう風に面白かったのか。

何が他の役者とどう違っていたから、演技がすごく感じたのか。

私たちは、映画評論家でもなければ、コメンテイターでもありません。

だからこそ、好きな作品についてもっと語っていいはずです。

今回の記事では、そんなnoteを読んでくださっているあなたが、好きな映画の語り方について、「ムービーメーメー」が、語る為のきっかけをつくれるような内容と、毎週記事を投稿する原動力を含めて紹介していければと思っています。

批評や解説、感想は選ばれしものの特権ではありません

っということで、アナタ(貴方)の好きな映画のカタリカタ(語り方)について、語っていきたいと思います。

面白いだけでは伝わらない

「この間みたxxxが面白かった」

「話題のやつだよね。面白い?」

「一気にみちゃったよ。面白いから見たほうがいいよ」

「気が向いたら見てみるね」

と友人の会話が終わったりしていないでしょうか。

自分からすれば、聞いてもらえれば共感してもらえるという確信があったとしても、口からでるのは、「面白い」ということや、「泣ける」ということ、「感動した、といった最大公約数の言葉になりがちです。

勿論、それでも、かまわないのですが、せっかく、自分にとって面白いものを見たのに、他人と共有できないというのは、残念なところです。

では、どういう風にすれば、面白さの一端を伝えることができるのでしょうか。

人によって面白さは変わる。

ムービーメーメー内の記事でいえば、「ブラッククランズマン」でのやり取りなんかを例としてだしてみます。

スパイク・リー監督による本作品は、その当時あたりまえのように蔓延していた差別というものに対して、双方の意見がわかるように取り扱いつつ、人間の業を描いているところにも面白さがあります。

本作品を、差別問題に対する警鐘だ、と思って重々しくみてしまうと、そこに面白さを見つけ出すのが難しいかもしれません。

もちろん、こんな事があったのだ、という事実に深い感慨を抱くのもいいでしょう。

しかしながら、映画はもっとフラットな気持ちでみてもいいと思います。

メーメー内では、これをコメディ的なものだとある程度色眼鏡をつけてみています。

事実、重いテーマをそのように扱うことで、物語そのものを楽しませる工夫がされているわけですが、相手が黒人かどうかは英語の訛りで当然わかる、という男が、電話越しで普通に黒人である主人公と電話で話している、というのはコメディ以外の何物でもありません。

こんな間の抜けたやり取りっていうのが、本作の面白さだと思います。

さて、面白さというのは、光の当て方で変わってくるものとなっています。

人によっては、アダム・ドライバー演じる男が、ユダヤ教徒であることを隠しつつ、クー・クラックス・クランの中で、ばれそうになるギリギリのやり取りのスリルに面白さを感じるかもしれません。

あなたの面白さのポイントは、実は、あなたの中にしかなかったりします。

それは、映画に限らず、日常生活や、様々な経験から導き出されるものだったりします。

続いては、あんまり、面白いと感じたことがない人でも、どうやったら、映画における面白さを見つけられるかを考えていきましょう。

映画をたくさんみると、たくさん面白くなる。

何度も書きますが、我々は映画評論家ではありません

リュミエール兄弟からその源泉をたどるような、教科書に載る映画を見る必要はありません

もちろん、興味がでれば見るといいでしょうが、興味がないのにみても、その面白さはわからないでしょう。

ただ、何本か映画をみていくと、時々思うときがあるのです。

この場面、どこかでみたことがある気がする、と。

あるいは、似たような設定前にもあったな、と。

現代風にアレンジしたリメイクなんていうのもありますので、混乱してしまうこともあるかもしれませんが、作品というのは、あらゆる先行する作品の影響を受けています。

ディズニー映画に強く影響を受けた手塚治虫が生み出したジャングル大帝が、ディズニーの名作「ライオンキング」としてオマージュ的に作られた、というのは、使いつくされた言い回しでしょうが、映画というのもまた、そのあたりのオマージュをささげるということが非常に多いものとなっています。

ホラー・ゾンビ映画なんていうのは、その手のオマージュが、すでに様式美になっているようなジャンルです。

単独行動しようとするやつはまっさきに死んでしまったり、モテなさそうな人が最後のほうまで生き延びてみたり、言っちゃいけない呪文をつい言ってしまったりと、まぁ、色々なものがあります。

中には、そんなお約束を逆手にとった「キャビン」みたいな話もありまして、映画というのは、本当に何でもありだと思わせてくれます。

沢山みると、関連性に気づいていくのですが、たいして興味がないのに、映画をたくさんみるというのも、実は難しいものだったりします。

どんな映画を見るべきか。

結論から言うと、今の自分が面白いものです。

あくまで、自分の興味は自分にしかわかりません

ヤクザ映画が好きな人もいれば、恋愛映画しか見ない人もいます。

大事なのは、そこから、どのように広げていくか、というところです。

ジャンルで広げるのも手ですが、多くの人は、ジャンルではなく、役者で見るということも多いのではないでしょうか。

ただし、役者だけを中心にして映画をたどっていくと、思わぬ袋小路にはまりこんで、映画への興味がストップしてしまいかねません。

たとえば、女優さんをもっとも美しく描いた映画というのは、たびたびあります。

例えば、長澤まさみ主演「モテキ」。

ここにでてくる長澤まさみは、天真爛漫でありミステリアスであり、主人公を奮い立たせてくれる理想的な女性となっています。

また、アン・ハサウェイなんかは、もともと素晴らしい美貌を兼ね備えていますが、「プラダを着た悪魔」において、彼女のキャリアの中においても抜群の魅力を放っています。

この映画をみたあとは、だいたいの人がアン・ハサウェイを好きになっていることでしょう。

美人ではあったものの服装はダサダサな主人公が、ファッション業界で働くことになったのをきっかけに、見た目=努力している、という価値観含めて人間の成長を描きつつ、圧倒的な魅力を作り出した作品となっています。

このような作品をみたとき、ついつい、同じ俳優の作品を見たくなるでしょうが、期待して他の作品を見てみると、それほどの魅力を感じなかったりします。

なぜでしょうか。

というのも、これは演出の問題だからです。

あくまで役者は、物作りにおけるパーツ(部品)であり、他の作品では輝く部品であったとしても、他の作品では、輝いていてはいけない場合もあります。

役者繋がりで、今まで興味がなかった作品に出合うということもありますが、役者の魅力だけでたどってしまうのはやはり危険なところでしょう。

逆に、役者の魅力というものを最大限に生かすことで、内容がそれほど面白くなくても、ついつい見れてしまう映画というのもあります。

例として正しいかは別ですが、ムービーメーメーでも紹介した「ディセンバーボーイズ」が、非常に良作となっています。

内容自体は、孤児院で引き取り手のいないまま大きくなってしまった男の子が、ひと夏の想いでを経験する、という話となっています。

まるで、スタンドバイミーを思い出すような、少年たちの友情や成長を描いたものにおもえる作品ですが、内容としては、あまりに地味です。

しかし、この作品は、ハリーポッターシリーズで欠かすことのできない、ハリー・ポッター役を務めた、ダニエル・ラドクリフが出演していたのです。

圧倒的な演技力と、役者のネームバリューは、地味な映画の中にも、華を与えています。

もちろん、作品自体もいいのですが、作品を構成する要素として、役者もまた重要なのだということを教えてくれます。

まずは、監督でつなぐ

役者も大事ですが、役者つながりだけで、見てしまうと、なかなか自分が面白い映画にたどり着けないのです。

何よりも、面白い映画がわからないと、なかなか、語るための糸口が見つけられなくなってしまうことになって、自分の好きな映画が迷宮入りしてしまうことにもつながります。

おススメの監督としては、「ダーティー・ハリー」で知られ、俳優としても監督としてもA級であるクリント・イーストウッドです。

映画の面白さ、楽しみ方というのも様々ですが、その中の一つとして、テーマがいいかというのがあります。

テーマというのは、簡単にいえば、この映画が言いたいこと、です。

クリント・イーストウッド監督「グラン・トリノ」でいえば、アメリカの魂を受け継ぐのは、アメリカ人だけとは限らない、というところでしょうか。

政治的については語られませんが、隣の家に引っ越してきたモン族の少年と、古い車を磨いて、庭の芝生を見ながら安いビールを飲むことを楽しみにしている老人との交流を描いたものとなっております。

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古き良きアメリカであり、アメリカを支えてきた男たちの、心というものが、グラン・トリノというフォードの名車に込められており、映画を見終わったあとには、色々と考えさせられる作品となっています。

そのほかにも、尊厳死について語られる「ミリオンダラーベイビー」であったり、罪を犯した人間がどこまでもその罪に追われていくことを描く「許されざる者」といったものまで、クリント・イーストウッド監督は、様々なテーマの作品をつくっています。

よい作品というのは、その人の人生を少しだけ変えてくれるものです。

劇場に入る前と、出た後では、世界が変わって見える

そんな映画に出会たのであれば、貴方は、語ることのできる一歩を進んでいると言っていいと思います。

変わった瞬間のことを話すだけでも、それを聞く誰かは、興味をもつはずです。

作品数の少ない監督であれば、すぐに見終えたりできますけれど、まずは自分が好きな作品を思い出してその監督、あるいは、脚本家でもいいですが、そのあたりから、広げていくと映画への興味が広がっていくかもしれません。

いもずる式で面白い!

語るとわかる

「面白いだけでいいじゃん」

と思われる人も多いでしょう。もちろん、それでもかまいません。

ですが、好きな作品のことをもっと知りたい、と思うことも人間の欲求の一つではないでしょうか。

ただし、そのためにはきっかけが必要です。

試験の勉強をしているときなんかは、教科書を上から順に読んでいくよりも、練習問題を解いて、わからないところから調べていったほうが頭に入りやすかったりするものです。

それと同様で、面白い、と自分が感じたところを、なぜそう感じるのか、というところをヒントに考えてみることで、新たな発見があったりします。

その時は、よくわからない行動だったとしても、実は、理由があったのだ、とわかることで、大きく理解が深まることも多々あります。

一度目より、二度目をみたほうが面白く感じる映画もあったりしまして、「ワンスアポンアタイムインアメリカ」あたりになってきますと、もともと長尺で、物語の冒頭のことを忘れ気味になってしまったりしていることもあります。

二回目には、キャラクターの性格や立ち位置もわかった上で、主人公が何に驚いていたのかわかる、というところでもあります。

語ろうとすると、結果、調べることになったりします。

最近では、「ラストナイト・イン・ソーホー」において、60年代のロンドンが描かれたりしています。

なぜこの時代なのか。スインギング・ロンドンというぐらい文化の中心にあったイギリスが描かれたりする中で、新たな発見というものもでてきます。

インプットも増えて、語ることでアウトプットしてなおわかる。
この循環こそが、語る醍醐味といえます。

思って、語って、語られて

映画に限った話ではありませんが、解釈を気にしてしまう場合もあるかと思います。

作者は、こういうつもりで作品を作っているのだ、こういうことを表現したいのだ、と言われてしまうと、自分はこう思った、ということが言いだしずらいかもしれません。

ですが、あまねくすべての作品というのは、作者の手から離れた瞬間に、別のものに変貌します。

作者の意図に関係なく、作品が独り歩きしたりするものです。

作者の解釈というものがあったとしても、人の感じ方は千差万別です。

また、時代によっても異なってきます。

近年であれば、ポリティカル・コレクトネスが当たり前になってきています。

いわゆる、政治的な正しさ、というものであり、人種や民族、男女による差別等、様々なことがあります。

黒人が主人公なのに、白人の俳優を使うのはいかがなものか、といったホワイトウォッシュ問題から、特定の人種を貶めるような表現はダメだ、といったものまでその内容は多岐にわたります。

一昔前であれば、それは、当たり前のことであったとしても、今の時代であれば、言語道断のことなんていうのはざらにあったりします。

それがいいとか悪いとかではなく、実は、そのあたりも、自分の感想の切り口にしてもいいのです。

昔の映画だと、当たり前にたばこのポイ捨てをしたり、ごみをそこらへんに捨てたりします。

女性のお尻を当然のように触って笑っていることもあれば、男らしくしろ、と押し付けるような場面も散逸されます。

過去の時代に作られたものを、今の感覚で否定するというのはツライものがありますが、こんな時代もあったんだ、という点から、自分の思うことを語っていく糸口には、十分にできると思うのです。

ファッション関係で行っても、バブル時代には、スーツに肩パットが入っていたりしたわけですが、今だとギャグにしかみえません

語ること、自分が面白いと思ったり感じたりすることも含めて、楽しむポイントは沢山ある、と思っていただくことが、第一でしょうか。

語ることで完成する作品たち

誰にも見られない作品というのは、クリエイターにとっては非常に残念なことだったりします。

誰かに、ああだこうだと語られることによって、実は、こういう見方があるんだ、ということが発見されたりもするものです。

極端なことをいえば、これは、あの災害を予言していたのだ、というものがたびたびでてきたりしますが、そんな与太話のような語りも含めて、作品というのは、消費していいものだと思っています。

ムーブメントが起きることで、その作品というのは、自分自身の時代をつくってくれるともいえます。

かつての、エヴァンゲリオンブームというのも、そのあたりの一環だととらえられるものではないでしょうか。

当時は、アニメなんか見たこともないような人達も含めて、こぞってエヴァを見たものでした。

だからこそ、長い年月を経た後に、最新作のシリーズがつくられ、そのすべてを締めくくるシン・エヴァンゲリオンがでてきたからこそ、人は何か卒業したような、何かの一区切りがついたような気分になったのではないかと思います。

誰かと作品について語り合うことで、自分の中で、作品と自分との距離感というのがでてくるものです。

作品とわたし

世界的な動きではなく、個人的な歴史としても、作品というは重要です。

あの時誰かと一緒に見て、語った作品だ、というのは、微妙な例え方をするのであれば、「いちご白書をもう一度」のように、感傷とともに語られることにもなるでしょうし、家族でみたディズニー映画が忘れられないですとか、ジブリ映画を親子でみた恋人と見た、なんていうのは、それだけでも、忘れられない思い出になりますし、後々自分の中で繰り返し思い出されることになるかもしれません。

楽器をにも弾き方があるように、映画を語るにも、知らなきゃいけないことがあったりはします。

解釈をするためには、映画の中にある事実をある程度正確に知っておかなければならなかったりもします。

ですが、そのような正確な考証については、いわゆるプロの映画評論家の方々にお願いするとして、我々は我々で、作品に関与することができる、ということはぜひ知っておいてもらいたいと思うところです。

特に、現代においては、SNSによる発信もできますし、古い作品もレンタル店を探し回らなくても、配信でみることができたりします。

この今の時代を生かさない手はありません。

語らにゃソンソン

そんなことを言われても、どんな風にいえばわからない。好きな作品がいまいちみつからない。こんなこと言ったら、笑われるんじゃないか。

理由はどうあれ、踏み出すのに二の足を踏んでしまう人も多いでしょう。

ご安心ください。

「ムービーメーメー」は、そんな皆さんの参考になるため、良くも悪くも作品について思ったことや知っていることを書かせてもらっています。

当記事なんかを参考にしていただきつつ、こんな書き方もありなんだな、と思っていただければ幸いですし、語るきっかけになってもらえればと思っています。

そして、語ることで作品の見え方が変わり、我々が普段何気なく生活している中での風景もまた、変わって見えてくることでしょう。

今回は、ちょっと趣向を変えて、映画そのものの解説や感想ではなく、皆さんにも語っていただけるよう、横道にそれた記事でしたが、たまにはそんなことも書いていければと思います。

以上、アナタが好きな映画のカタリカタでした

もしも、需要があれば、映画以外にも、漫画やアニメの語り方なんてのも軽く書ける機会があれば面白いかもしれません。。

め~め~。

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