野田市下町、生まれた辺り

千葉県野田市の出身だと言うと、関東圏で育った人からは「キッコーマン醤油工場の見学に行って小瓶をもらった」もしくは「清水公園のフィールドアスレチックに遠足で行った」という反応をもらうことが多い。他には無いのか、と思うが実際、無い。あとはゴルフコースが有名、ってことぐらいかしら。

私も専門学校の2年間と就職後数年はここから都内に通った。東武野田線で柏へ、常磐線で日暮里へ、そして山手線で新宿へ、更に丸の内線で御苑前へ。高額定期券フル活用で休みの日まで都内に遊びに出かけていたのだから、若いって元気だ。今じゃ考えらんない。

途中駅につくばエクスプレスが乗り入れ、柏の駅も広く改築されて、今の状態になったのは私が都内で暮らすようになってからずっと後のこと。それまでは1つしかない東武線の改札から、これまた1つしかない常磐・千代田線の改札まで、短い狭い通路に人が溢れてギュウ詰めになって、入場制限をすることもあって、下手に先頭で待つことになると押されて本当に怖くて。そういえば改札もまだ人力だったな。私たちはお気に入りのケースに入れた定期券を駅員さんにチラリとかざし、それを見ていないようでしっかり見ていた駅員さんは、稀に切符が差し出されるのを待ち受けてカチカチとハサミを振るう。見事に昭和な風景。

野田に地下鉄が通るとか、第二常磐線が通るとか、色々あった噂は今も噂のままで、しかしこの度、東武野田線に遂に大きな変化が起きた。アーバンパークラインに改名したこと、ではない。一部が高架になったのだ。一部もいいとこ、2駅だけ。野田市駅と愛宕駅。いずれもたまたま私が帰省の際に使う駅だったので、ここ数年の工事の様子をなんとなく眺めてはいたものの、なんだか現実味が無いというか、完成する気がしないというか。それが前回、年末の帰省時にいきなり完成していた。「のだしぃ、のだしぃ」という車内アナウンスでふと目を上げたら、ん?ここはどこ? 見慣れた古びたホームが無い。並走する貨物の線路も、その向こうのキッコーマンの建物も見えない。一瞬、乗り過ごしたかと思ったくらい見覚えゼロ…っていうか、空しか見えない。んん?っと思っているうちに発車。次の愛宕駅も天空だ。踏切の音がしない。ここの踏切渋滞も、高架にする大きな理由だったはず。実家からの私の最寄駅はここ。古い古い記憶から最近の帰省まで、驚くほど変わらなかった駅の風情が驚くほど変わっていた。そして歩いてもすぐの次駅、清水公園で地上に戻る。つまりは、グイーンと上昇して2駅だけ上にいて、またグイーンと下るジェットコースター的な流線なのだ。しかも、単線のまま。えーっ、こんな大工事をして単線のまんまなの ⁉︎  だから通過待ち合わせ、という懐かしい響きはそのままだ。私が子供の頃はザリガニがいる沼地だった清水公園駅前。おっかなくて夜なんか絶対に歩けなかったここが宅地開発されて、でも沼地事情がバレたんだかなんだか売れ行きはさっぱりなまま何年も経過していたが、さすがに家がかなり建ち始めている。建ててから売るのかも、だけど。ともあれ、実家から車で迎えに来てもらうにはこの駅で下車するのが定番になっている。

それから半年を経たこの6月頭。久しぶりの再訪にあたり、今回は心して車窓を見つめた。上から眺める野田の街並みはなかなか素敵だ。野田市駅周辺に広がる醤油工場や、低層が続くからこそ遠くまで見渡せる、広域に点在する古い建物。ちょっと見惚れた。

この日は弟夫婦の車で野田の下町(しもちょう)というエリアへ。まずは墓参りだ。実家があるのはこことはだいぶ離れた、往年の新興住宅地的なエリアなんだけど、私が生まれたのはこの下町エリア。先祖代々の墓もこっちにある。生家はとっくに壊されて、幼稚園時に引っ越したので私もほとんど何も覚えていない。冒頭の写真はそこにある歴史的建造物、興風会館だ。昭和4年竣工で今も現役。奥行きのある堂々とした建物で国の登録有形文化財になっている。私世代は成人式もここだった。中に入ったのはその時ぐらいかな。何故か母とデューク・エイセス公演を観た記憶もある。少しでも有名な人が来たらイソイソと観に行くのが昔の田舎のハレってやつだ。それが今の私の礎なのかも。現在はガイドツアーなども行われているらしい大切な建物。古くて暗いイメージだったが、改めて見ると立派なものである。

両親も祖母も墓の中の人となり、近年ようやく私も墓参りに意味を見出すに至っているが、古い古いこの墓地も、誰が眠っているのか実感が無いまま親に連れられて来ていた頃とはだいぶ様子が違う。守る人がいなくなったのか、放置されている墓も目立つ気がする。お隣の墓にはお参りの跡が見られた。一度も出くわしたことがないお隣さん。いつも気配だけ感じて、あちらも無事らしいな、と思う。あちらは、こちらの石に新しい名前が刻まれたことに気づいているかな。

下町には我が家の墓の他にも、父が亡くなった病院があり、今となっては夢か現か定かではない公園や友人宅や石碑や、祭など我が幼少期の記憶が残る。が、他には何も無い、と思っていた。かつてはここが野田のメインの商店街だったそうだけど、とっくの昔からシャッター街で、だからといって一気にマンションなどに変わることもなく、いつ通っても良くも悪くもそのまんま。古い木造住宅も、両親が結婚式を挙げたという会館も、そのまんま残っているのだ。その多くがキッコーマン関連で、それが高架になった駅からボンヤリ見えて趣を醸し出しているのだから、やっぱり野田はかなりの部分が醤油で出来ているんだろう。駅前が既に醤油臭い、なんて言われて憤慨したものだが、こうしてたまに来ると確かに大豆が香る。

平日だから?と聞いたら弟は「いや、いつも」と言うシャッター商店街。その中に花屋、和菓子屋など、頼りになる小さな店もあるらしい。
木臼の再利用
少し前の雹で葉が叩き落とされたらしい

こういう古民家を若者たちに安く提供して再生させたらいいのに、とは今、住んでいる品川の旧東海道沿いでもよく思うことだけど、言うは易く行うは難し、なんだろう。でも、そういう動きもあるんだよ、ということで弟たちに案内されたのが、興風会館から歩いてすぐの旧中村商店。見えてきた屋根に何やら人影が。。。

正面に回る。中が暗くて、外からでは様子が伺い知れず、ちょいと入るのを躊躇するかも。というか、そもそも店なの?入っていいの?って感じはある。でもたぶん、私はひとりでも分け入るだろう。すっかりそういうオバちゃんになった。でも、この日は、何度も来ているという弟夫婦のお導きで中へ。

ここはかつて炭屋さんだったんだって。へええ…と納得しつつ、よく考えると炭屋さんって何だかよくわからない。私にわからないってことは、今ここにいる若者にわかるはずもない。そもそも、こんな素敵な建物、あったっけ? 表の顔はいじっていないようだけど、まるで記憶にございません。

正面入り口に面した1階は CB PAC。千葉県のギフトショップだ。といってもチーバ君で真っ赤っかな、あの物産展のイメージではない(因みに野田市はチーバ君の鼻先にあたる)。むしろ、色らしい色は無い。洒落た店ってのはそういうものだ。そして照明は控えめ。厳選された商品が整然と並ぶ。物産、ではなくてギフトだしね。

野田市内のスーパーにはキッコーマン以外の醤油は並ばないというまことしやかな噂があって、実際、我が家も醤油=キッコーマンだったから私も他に醤油があることを知らずに育ったようなもの。だから、 NHKの朝ドラ「澪つくし」で醤油といえば銚子のイメージの人も多いということを後に知って驚いた…んだけど、まあ、ここはそういうレベルの話ではない。リンクにあるように食品や調味料が少数精鋭。行儀良く並んでいる。1個売れたら1個足すんだろう。決してぶっ積んだりしない。弟家では既に愛用品もあるらしい。

入り口近くにディスプレイされていたのは OTTAIPINU のタオル。これまた弟家では既に使用中で非常に使い心地がよろしいとのこと。いくつかあるデザインの中から、パッと広げて出てきたヒョウに一目惚れして騒ぎ、ishikoro というデザインのバスマットと共に弟たちに買ってもらっちゃう姉。このバスマット、石畳のような踏み心地という謳い文句通り、不思議なフワフワ&シャリシャリ感がクセになる。マリメッコなどのデザインでもお馴染みのテキスタイルデザイナー、鈴木マサルさんの作品。彼も千葉県出身なのでした。

他に私が気になったのはコレ。レトロなラジオだ。どうやら店主のお兄さんと繋がりのある木更津のお店製で、ラジオとしても機能してザラザラした質感の音を鳴らす一方でデジタル音源のスピーカーとしても働くそう。ナショナル印、である。こういうのを私が懐かしく感じるのは当然として、なぜこの平成ボーイにも訴えるものを持つのか。不思議。日本人DNAってことなのかな。

さて、こちらを旧・中村商店の母屋とすると、その隣には倉庫がある。かつては炭俵が山積みされていたのかもしれないスペースに、今は bababa というスーパーおしゃれな花屋さんが入っている。花屋っていうより、グリーン屋、かな。キングプロテアあたりがさりげなく並んでいると、なるほどそっち系か、と勝手にわかった気になるが、あとは名前を存じ上げない緑ばかり。オープンな階段で2階へと伸びていく開放感たっぷりのスペース。一部透明な天井から入る日光。そこにモリモリ茂るグリーンやら怪しげに伸びる蔓やら。ミニ熱帯植物園の趣だ。不思議な形の植物に、うまいこと合わせてある器もまた気が利いている。こういうのはねえ、この組み合わせのまんま持って帰らないと…いや、このまんま持って帰ってもウチのベランダじゃ文字通りの持ち腐れなんだよねえ、悲しいことに。お店の若者たちはニコニコ元気でクロロフィルたっぷりな感じ。色々とこちらの要望に応じてアレンジ可能だと話してくれた。



再び母家に戻り、13時の開店と同時に2階のお店へ。靴を脱ぎ、狭くて細くて急な階段を這い上がる。外から見えた屋根の上の人体さんのお家がここ、月を悦ぶと書いてユエ。

その名の通り月がテーマの商品セレクトで、私はこんな素敵なレギンスを、これは堂々と自分で購入。月の満ち欠けが、着用すると私の太い脚の上で広がりきって表現されにくいのが悲しい。

こちらの店主は落ち着いた大人の女性、だけどやっぱり熱い。商品に対しても、この場所に対しても、並々ならぬ思いとこだわりを持っていらして、伝えたいことが次から次から。セレクトショップのオーナーはこうでなくちゃ。それにここ、実際にストーリーの宝庫なのだ。建具ひとつ、壁の落書きひとつ、こっちもつい気になって質問してしまい、するとものすごい量の情報が返ってくる。

近隣の古い建物の解体現場から譲り受けた諸々も数あるという話で、何とその中には私が生まれた産科から来た物も! さすがに自分で覚えているのは病院の名前だけ、だけど、この目の前に住んでいて、すぐ近くの産科で生まれたことは確かなので、うわああ、もしかしたらその時にそこにあったものだったりして。還暦を迎えたばかりの私の歴史が正に一巡したような感覚を味わう。両親や祖母が生きていればなあ、色々と聞けて面白かっただろうなあ。。。

急階段は降りる方が大変だ。ズリズリと這い降りて、母屋の裏手の、調え中のエリアを見せていただく。

敷地内には中庭を挟んで離れもあって、そこはパン屋さんだったり、作家さんの工房だったりするそうだ。思いを同じくする若者たちが集まって、特に助成金などを得ることなく、職人さんの手を借り、近所の人たちと店先マルシェで交流し、自分達の信条とペースを守って少しづつレノヴェーションを進めているとのこと。それって、ものすごく大変だけど、ものすごく楽しくて、ものすごく贅沢なことだと思う。政治家のオッサン達から何を言われるまでもなく、若者たちはとっくに SDGs を実践しているんだ。SDGsって謳い文句だけ貼り出したフェンスの後ろでガンガン木を切ってビルを壊して穴を掘りまくってタワマンをボンボン建てるような、形ばっかりのデヴェロッパとは違うんです。

いやあ、いいもの見ました。

そしてようやくお昼ごはん。再び興風会館の前を通って蕎麦屋の「こなきん」へ。先に寄るつもりが混んでいて、並んでいる人もいたので後回しにしたんだけど、2時を過ぎてもなお、店内は満席状態だった。

「粉金」だと思っていたら「古奈金」と書く、と老舗なのに初めて知った、というか、初めて入った。桜海老のかき揚げがサクサクッ。美味しいっ。濃いめのツユに蕎麦湯も美味いっ。店員さんの接客っぷりもテキパキ小気味良い。人気店には理由があるね。

帰り道、少し前にインテリア関係の仕事をしている友人の投稿で知った BUNDLE GALLERY というのを探して車で少しグルグル。すぐ近くにあるはずなんだけど…おっ、あの緑がこんもりしているところかな? いかにもそこだった。友人によれば、1974年竣工の建物をインテリアスタイリストの方が3年がかりで復元改修したギャラリー/ショウルーム/撮影スタジオとのことで、先ほどの CB PAC のお兄さんもお披露目の際にはパンを提供したんだそう。予約制だから、この日は周りを走りながら入口を遠目に確認したのみ。ほら、やっぱり放っておいてもSDGs なんだよ、既に、進んでいる人たちは。どんどんお任せしたらいいんだよ、ねえ。

野田市駅を車で通過して実家へ向かう。ここは父親が入院していた病院から見舞い帰りに何度も何度も母親とトボトボ歩いた道。ここから私は電車、母はタクシーで各々帰っていった。でも、あら?なんか感じが違う。あ、長い壁の向こうの工場だか倉庫だか、がすっかりなくなっているんだ。田舎とはいえ駅前の一等地。どうするんだろう。キッコーマンと野田市のセンスが問われるところだ。

夕刻、実家でワイワイの後、おいとますることになり、いくつかのオプションの中から愛宕駅コースを選んだ。前に愛宕駅で乗り降りした時はまだ工事中で、両サイドのホームは長い階段で移動しなければならなかった。今回は高架になってから初。いやー、アーバンである。この立派なトイレを見てくれ。これは使おうって気になるよね、前の昭和なやつと違って。それにエレベーター!愛宕駅にエレベーターである。文明開花の音がした。西口と東口があるのか!じゃあ、待ち合わせはそこも指定しないと、だな…と思いきや改札は1箇所で、要はそこから右に折れるか左下に折れるかという話。こちら側は周りに何もない広いロータリー。あちら側は少し向こうにスーパーがあるので、何か開発が目論まれているんだろう。しかし、ここらの駅はまず、何は無くとも駐輪場、できれば駐車場が必要なんだよね。私も昔、駅のすぐ前の古い古い駐輪場に月極で預けて通ってた。元気なお婆ちゃんが重たいチャリンコを朝から晩まで整理整頓してたっけなあ。


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