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良き隣人(走らない×シロクマ文芸部)

「走らないで、順番は守ってくださいね」

「はい、すいませんドクター、今年もお願いします」

神妙な面持ちをした男性が、使い古された丸椅子に座って、一人の男性を見つめている。

視線の先にいるドクターと言われた男は、音もなく「うん」と頷き、男の目線を受け止めた。

「ジョージ・ヤッパリアゴワレテール」

ドクターは丸椅子に座った、一見30歳の迷子にも見える男性の名前を呼んだ。

名前を呼ばれた本人は、季節遅れのヒマワリみたいに、少し時間を空けてから、満面の笑みを浮かべて

「ありがとうございます、ドクター、あっしは今年も頑張れそうでさぁ」

と言い残すと、その場を去っていき、代わりに10代に見える女性が泣きながら、部屋に駆けてきた。

ドクターと呼ばれる男性は初めて見る10代の女性が、どうやってこの場所を知ったのか不思議に思った。

「ドクター、あたし、あたし、誰もあたしのことを知っている人がいなくて、このままだと、生きてるうちから命とか存在とかの火が消えていくんじゃないかって怖いの、ドクター、助けて」

ドクターと呼ばれた男性は、慈愛に満ちた手で10代に見える女性の手を包み、音もなく「うん」と頷くと彼女の名前を呼んだ。

1983年7月23日、イギリスはいよいよ本来の夏を取り戻し、この場所の近くにある漁港の活気が、開け放たれた窓を通って、二人の間を撫でていった。

ドクターと呼ばれる男は、普段イギリスの歴史が積み重なっただけが特徴の古い町で倉庫番をしていた。

築100数年の赤茶のくたびれた倉庫で、男は20年の歳月を過ごしており、1980年には43歳という年齢になっていた。
倉庫は長距離トラックの運転手が立ち寄るくらいで、その他に人がくることもない。

男は1日5人程度、トラックの運転手が来ると、声をかけることもかけられることもなく、倉庫の扉を開けて、目的を達したトラックの運転手が去っていくと、静かに扉を閉める。

あるときに、来週にはトラックの運転手を辞めるという男が話しかけてきた。12年くらい、この倉庫を行き来していたが、ただの一度も話したことのない男だった。

「長距離走るとよ、隣に座っている影がある、それが孤独の正体だと知った時、俺の人生はなんなのか、って考えっちまったんだよな、するとだめだ、俺はもう走れないね、信じられるかい?俺がこの仕事を始めたのは10代後半で、もう12年も誰にも名前を呼ばれてねぇ、俺ってのは誰なんだろうな?」

トラックの運転手は濡れた倉庫の壁面を気にとめず、寄りかかりながら煙草を吸いだした。

ドクターと呼ばれた男は、その男の名前を知っていた。

「ユーリ・ウンテンアブナーイ」

トラックの運転手が手にしていた煙草が落ちた。

「そうだよ、それが、俺の名前だ、なんだ知ってたのか、俺のこと知ってたのか」

歓喜に満ちた表情で、男は帰路についた。
それからドクターと呼ばれた男は考えた、孤独について、自分を認める存在がないことについて、そして名前について。

そして
「私は身よりがなく、孤独を深刻なものとして捉えて苦しんでいる人の力になりたい」

と考え、少ない収入をなんとかやりくりし、貯蓄して、溜めたお金で漁港近くにある自分の家を改築した。
大工はドクターと呼ばれた男の要望通り、当時イギリスにあったありふれた診療所のようにした。

その診療所もどきの名前は
『グッド・ネイバー』


それから、彼は何十年にもわたって、誰からも忘れられた人々の『名前』を呼ぶことを仕事とし、その間様々なことがあった。


2023年7月23日 
ドクターと呼ばれる男は、あれから何度か買い換えた椅子に座る、40代くらいの女性を前に、過去のことをぼんやりと思い出していた。

今日のイギリスのこの地方は、霧雨で港が曇っている。窓を開けていると微かな風に乗って、デスクの上の書類が気づかぬうちに濡れいてた。

「あれから、30年ですか?ドクター」

目の前の女性もドクターと呼ばれる男と同じ港を眺めていた。

「君が泣きながら部屋に駆けてきたときは何事かと思ったよ」

「10代でしたから」

「うん、私も40代だったな」

ドクターとは、彼自身がそう呼べと指示したわけではなく、この「誰かの名前を呼び、存在を認める」という仕事をはじめてしばらくしてから、誰かが言い出したものだった。
それが広まり、30年という長い月日、彼はドクターと呼ばれてきた。

「ここに訪ねてくる人も、もう君だけだ」

女性は優しく、うなずいた。

昨今SNSが発展し、顔も知らない人々から簡単に自己の存在を承認してもらえるようになると、ここへ訪ねてくる人は年々減っていき、今ではドクターの目の前にいる女性だけが毎年通っているだけだ。

ドクターはそれを悪いことだとは考えていない。
SNSだろうがなんだろうが、人が人と繋がり、認められる権利の場がより公平なステージに上がった喜ばしい事だと考えている。

だからこそ、目の前の女性がなぜ、毎年尋ねてくるのか不思議でならなかった。

「来年には君の名前を呼んで上げられないかもしれない、体にガタが来ていてね」

ドクターと呼ばれた男の体は、彼が送ってきた年月の数に相応しい病を抱えていた。

「それは、困りますわ、あたしのことを知ってくださるのはドクターだけです」

「君は結婚して、立派に子供を育てて、豊かなものに囲まれているじゃないか、どうしてここへ来るのだね?」

「あたしの孤独は、あの日部屋に飛び込んで、ドクターに手を握ってもらったときから、変わってないんです、それが悪いんじゃなくて、その孤独をあたしの名前と一緒に知ってくれているのがドクターだけなんです、今でも毎日ここへ駆けだしたいくらいですわ、でもそれができない、でも、泣きながら駆けているあたしが、本当のあたしなんです、ドクターあたしの名前をお願いします」

ドクターと呼ばれた男は、音もなく「うん」と頷いた。

「ピーナッツバター・ビーン」

女性はくすりと笑った。

「相変わらず、あたしの名前って変な名前ね、ドラックで頭がやられた親からつけられた最低な名前」

「ピーナッツバターもビーンもきっと1000年先だって人とある存在で、人がより幸福なときや、あたたかな食卓に並ぶ素敵なものだよ、私は君の名前が、君の存在と同じくらい好きだ、どれだけ君が自分でヘンテコだと言っても第三者の私がそれを全方面から認めているよ」

「ありがとうございます」

女性の笑みはすっかり憑き物が落ちたように見えた。
女性がバッグを片手に椅子から立ち上がる。

「ドクター」

「なんだね?」

女性はイタズラを思いついたような顔をして、ドクターを見た。
その表情は1983年7月23日に彼女の名前を呼んだときに見せた
10代のオレンジ色の光を湛えた、笑みだった。

「ノーパン・アソコカイカイ」

ドクターと呼ばれた男は何も話せなかった。

「あたし、10年前から考えてたのよ、ドクターだって、ずっと名前呼ばれてないんじゃないのかしらって、じゃあ、さよなら、来年だってまた来ますからね、ご自愛ください、ドクター」

女性は去っていった。
1983年7月23日のように、あとに続く尋ね人はいなかった。

部屋には波が打ち寄せる音と、女性が遠ざかる靴音がした。

ドクターは部屋を見回した。
彼は上質な仕事を一つ、人生をかけて終わらせたような気持ちでいっぱいだった。

「私の名前……か、ありがとう」


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