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人はもっとシンプルに生きていい

瞑想合宿に行ってきた。

ふつう瞑想合宿というと、リトリートを兼ねて俗世から離れる期間として1週間〜10日間あたりが良いらしいが、わたしは、猫さんを独りお留守番させての参加だったので三泊四日でした。

なぜ1週間以上がいいのかと言うと、短すぎると、やっとノってきた非日常から、日常に戻るのが早くなってしまうのでもったいない、というのがその理由。

解脱するためには俗世から離れ、そう言った環境にどっぷり身を置いて修行しなければならなくて、日常と非日常を行ったり来たりでは悟れるものも悟れず解脱は実現しない。
「出家」というのはそのためにあると言われています。


現地では、瞑想の世界に入りやすくするため四六時中「無言行」というのが行われる。

つまり他者とのコミュニケーションを断つ。

せっかく縁あって同室になった人との「おやすみ〜」の挨拶もなしだ。
例外として、読経のとき、師との質疑応答のとき、合宿のスタッフにわからないことを聞いたり、宿泊先の従業員に頼みごとをするとき以外は、しゃべらない、目も合わせない、会釈もしない。まあなんと楽ちんな世界。

他者とコミュニケーションをとる、というストレスからの解放。

きっとおしゃべり好きな人にとってはこの「無言行」は辛いものかもしれないが、わたしにとってはどうってことなくて、特に今回は三泊四日だけなので無言生活も苦なくできるだろうと思ってたらやはりそうだった。


瞑想と一口に言ってもいろんなやり方があって、一般的によく行われる「坐る瞑想」からはじまって「立つ瞑想」「歩く瞑想」「食べる瞑想」などがある。合宿中はこれら取り混ぜて自由に、個々の都合で瞑想してよい。場所も敷地内であれば屋外や自室でもかまわないし、瞑想室に至っては24時間使用できる。

朝5時と夕方5時から、師による「読経」と「瞑想会」が行われるが、これも自由参加。個々の瞑想スケジュールを優先してよいことになっていた。
わたしは、初日の、師による読経・法話と瞑想指導だけ参加して、それ以外はこれらの集まりに参加せず、ひたすら孤独に瞑想に没頭した。


人によっては、こういう瞑想合宿に参加すると、非日常の環境の影響か、瞑想中に神秘体験をする人もいるようだが、わたしにはそのような感覚はなかった。
いつの頃からか、神秘体験というものも「妄想」のひとつにすぎず、体験しても意味はないと思うようになっていて、そのせいか、日頃瞑想していても不思議な感覚を味わうのが以前より少なくなってきた気がする。これが良いのか悪いのか、わからない。


ただ、今回、早朝のひんやりした空気の中で歩く瞑想をしていて、ふと空を見上げたら、なんとも言えない今まで味わったことのない「自由」を感じた。

自分の好きに動いていい。自分のやりたいことだけをやっていい。合宿中は、食事だってお弁当だったから料理する面倒臭さから解放される。常に思考を手放しているので頭の中に余計なものはなんもない。

合宿中にやることは、瞑想という世界の中で寝起きし、ご飯を食べ、風呂に入り、また寝る。ただこれだけの生活。これだけで、人は生きられる。同時に感じたのは、ふだんの生活のなんと忙しないことか。思考や物質を含めて無駄なものがあまりにも多すぎる。


人はもっとシンプルに生きられる。


自分自身に許可を与えよう。
もっと人はシンプルに生きていい。
不要なものは捨てて、足していく生き方から削ぎ落としていく生き方へシフト。
何も持たないこと、何にも束縛されない束縛しない生き方が「自由」なのだ、と体感した合宿でした。


やはり三泊四日のリトリートは短かった。今度は一週間ぐらい行けるといいな。


マーくん、お留守番ありがとね。
お世話してくれたキャットシッターさんもありがとうございました。

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