見出し画像

Puss in Boots: The Last Wishが保守派にウケながらも有害な男性像を変えるワケ

YoutubeでDisney vs Dreamworksと検索すると「ストレンジワールド」でゲイの主人公が好きな男性と親しむ様子や、「ライトイヤー」でレズビアンカップルがキスをするシーンには🤮、「長靴をはいた猫と9つの命」でDeathが鎌を振るうシーンには🥶(cool かっこよすぎ)という絵文字が使われ、Dreamworksを持ち上げている動画が多数見つかる。

コメント欄では、悪役を描かず、フェミニズムやLGBTに対するWoke(目覚め)を推進する最近のディズニーに対して下げの評価をしており、一方ドリームワークスはTwist villain(後半で悪役だと判明するパターン)でもなく古典的な悪役を描き、血を恐れずに描いていることなどで賞賛する例が見られる。

ちなみにディズニーに公平を期すために言うと、YouTubeにはこうしたアンチWoke、アンチフェミニズムでミソジニーなコンテンツが蔓延っている、またはアルゴリズムでそれを促進する傾向があると指摘されている(以下参照)

https://www.washingtonpost.com/technology/2022/09/18/you-tube-mysogyny-women-hate/

https://www.isdglobal.org/wp-content/uploads/2022/04/Algorithms-as-a-weapon-against-women-ISD-RESET.pdf

そのため、これらの動画ではディズニーはゲイプロパガンダを洗脳的に描いているという脅迫的なイメージがついてしまっているが、それは偏っている。ストレンジワールドを見た筆者からすると、表現が進んでいてそんな嫌悪感は全く抱かなかったし、ディズニーに非があると言うよりもホモフォビックな視聴者に問題がありそうだ。

それはさておき、これらの動画を見ていて、反対に長靴をはいた猫2が保守派にウケる映画なのかというイメージがついたので本当かどうか見てみた。

Dreamworksに公平を期すためにいうと、長靴を履いた猫もマッチョな男性像を解体するように描いている。

表面的に見れば、オオカミの死神がクールなヴィランで、かっこいい戦闘があって、プス(主人公の猫)は死の恐怖に打ち勝ちヒロインと結ばれる、死はやがて訪れるが今を一生懸命生きようという普遍的なメッセージを伝えている。

しかし社会文学的な見方をすれば、古典的な男性像を一新する物語に感じた。

メディアの文脈でステレオタイプな男性像といえば、ヒーローである。戦闘能力が強く、精神的にもタフで、勇敢で恐れない。世界の危機を救うためにモンスターと戦う、あるいは敵に襲われているヒロインを救う。

より深くジェンダー学の観点から見ると、この男性像は家父長的である。家父長制とは、男性が働き、女性が家事をし、子供を育てるという制度のことであり、いわゆる伝統的なジェンダーロールである。さらに、これらの社会的役割には男性としての振る舞い、あるいは女性として望ましい姿を身につけることが含まれている。男性のアイデンティティは、支配力、強さ、力強さ、合理性、強い労働倫理、競争心といった資質を含んでおり、これらはのちのアニメーションやドラマ、映画などに男性キャラを描く際に(ヒーローなどに)現れている。

プスも例外なくこの伝統的な男性像に合致するキャラクターであり、自分は伝説の猫で、恐怖を感じないヒーローだと、映画の中で繰り返し言っている。

このプロットで最も重要なのは、貧弱な体で、精神的にも弱い男性が恐怖しているのではなく、プスのように強い男性が恐れ慄く姿が何度も描かれていることだ。デスが登場するたびに毛を逆立て、いつもの大口を叩く姿は鳴りを顰め、逃げてしまう。途中では恐怖のあまりパニックアタックが起きている。

Dreamworksはこの男性像に穴を発見した。どんなに強い男でも、初めて死の恐怖が訪れた時は怖がるものだと。そして、保守派にとって死に恐怖する男は全く理解できることなのでこれらは気づかれない文脈である。

また、デスというオオカミは一見古典的な悪役に見えるが、これは悪というよりメタファー的な敵である。彼は、"I don't mean it metaphorically or rhetorically or poetically or theorotically or in any other fancy way. I'm Death straight up." (メタファーでもレトリックでも詩的表現でも机上の空論でもない。”死”そのものだ)と発言している。プスにとってはリアルなのだが、視聴者からするとそれでも死神というメタファー的存在である。

今までのディズニーやその他のヴィランでメタファー的な敵が描かれたことはないと言ってもいいのではないか。たいていはその世界に生きている人物または生物が悪いことをしているのである。死というものはそれ自体では存在せず、生と表裏一体の、自分自身の内側にあるイメージ、あるいは生物学的な現象である。つまり、デスはキャラクターデザイン的には赤い目のオオカミで鎌を持つわかりやすいヴィランなのだが、他のヴィランとは性質が異なっている。

死は人によって敵に見えたり悪に見えたりする、見え方が個人によって変わるものだ。あるいは死を感じたことがない人には見えないものだ。他の悪役よりもずっと比喩的な存在感を放っている。なので、別のyoutube shortsで、デスと他の作品の強キャラをステータスで勝負させてデスが勝つという内容の動画が流行っているが、言葉の擬人化と比べるのはいささか不公平ではある。

そのため、プスという強い男性が戦うのは巨大なモンスターでも世界の危機でも、ヒロインを救うためでもない。自分自身の死に対する恐怖なのだ。精神的な戦いなのだ。

もし、巨大なモンスターや世界の危機に対して戦うならば、前作ですでにやっていることなのでキャラクターとしての発展を描くことはできず、キャラクター性の強化になる。また、ヒロインはキティーだが、彼女は前作からプスと同等に強い猫であり、ヒロインを救うという設定なら彼女を何らかの理由で戦えなくするよう弱体化しなければならない。しかし、最近は女性も戦うことが当たり前になっているので、古臭く感じる。

Dreamworksは、ディズニーを目の敵にしているアニメ会社であり、度々ディズニーを風刺するような小ネタやストーリーを挑戦的に描いている。なので、ディズニーのようにわかりやすくフェミニズムやLGBTのキャラクターを描こうとはしないだろう。また、Disneyが女性的なファンタジーを軸に描いてきたのに対して、Dreamworksは男性的なアドベンチャーを描いてきた。Disneyが男女のロマンスなら、DreamworksにはBrotherfood(兄弟の縁)が主題によく描かれている。

そのため、ディズニーよりも男性像に向き合ってきたと言えるのではないだろうか。ディズニーがプリンセスの書き方を一新しているならば、ドリームワークスはこの長靴をはいた猫の続編でアウトロー男性の書き方を更新している。

ヒロインは結婚式でも怖くて逃げたプスを、自分の男性像のイメージに取り憑かれ、自分のことしか考えてない、私はそんな男は真っ平だという。

だからヒロインと結ばれるためには、過去の男性像を捨てなければならないという、保守派が魅力的な女性をゲットするという欲しいストーリーを描きながらも気づかれずにリベラルへ向かってるところがすばらしいと感じた。

どんなに保守的なメディアでも、この多様性と異性愛規範を破壊する流れからは逆らえず、どんなに保守的な消費者もメディアの消費を通じて影響せずににはいられない。そこにディズニーのような急進さはなくとも、有害なステレオタイプは描かれなくなっていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?