死について

 死についてや、生についての諸々を、幼いころからよく考えていた。「なぜ私は私なのか。」という存在自体についての謎は、もう五つくらいの時から考えていたように思うし、「死ね。」と言われる経験をいくらかしたから、そのタイミングで死を意識し始めたのかもしれない。とも思うし、生の記憶がなくなっていくにつれ、死に近づいていることを自覚し、また、その儚さについても考えを巡らせていくのは、人により遅かれ早かれはあっても、結局、生来の人間の性なのではないか。とも思う。

中学のいじめをきっかけに、私にとって死は憧れとなった。「死ね。」と言われることに対する相応な返答として、当時、「死ぬこと」「消えること」は私にとっての切なる願いであったし、それが彼らにとっても最良の結果なのだと思う時期もあった。(椎名林檎さんの「ギャンブル」という曲に似たような感情を表現した一節がある。”灰になれば皆喜びましょう。”)


生きることは辛い。度重なる不運や、人を傷つける人びとに、容赦なく心は傷つけられていく。そんな生活から逃れたい。もしくは逃れた先で新たな人生を歩めるのだとしたら、もう私としての人生を生ききるのではなく、さっさとシフトチェンジしたい。そんな考えが私の頭を長い時間支配するときが、今でもある。

死にたいと思うことは同時に、死んでしまった人に対して羨望のまなざしを向けることにもなる。例えば私は、自殺をした中学生や小学生のニュースを見ると、その子の両親や親族への同情の前に「すごい。勇気ある…」という半ば尊敬に似た感情が芽生える。それ以外にも死んだ人に対しては、「この人はもう生を終えたんだ、いいなあ。楽なのかなあ。」なんて、実際に死後の世界を知りもしないのに、勝手に思ってしまう。

しかし最近、特に大学に入ってから、私の周りで様々な死に関する事態が起こった。

まず私事では、二度の大きな手術がある。2016年と2017年の夏のことである。一度目はICUに入り、想像を絶する思いをした。一晩中のどがカラカラで過ごすこととはどういうことなのか。食事を大きく制限されるということはどういうことなのか。普段何気なくしている呼吸でさえも愛おしいと思える体験であった。ICUの個室に入っている間、深夜まで眠れなかった私は、目の前にある時計の秒針を一秒一秒数えながら、外にいる他のICU患者を想像した。「この外にいる人たちの中には、意識がなく、今まさに、生と死の間をさまよい続けている人もいるだろう。そして、その人たちの周りには、もれなく、その人に生きていて欲しいと切に願う家族がいるのかもしれない。」

術後十五分で帰宅した私の母。私の手を握る初対面の看護師さん。外にいる、他のICU患者たち。その一人一人のことを考える。「こんな風になってまで、なぜか私はまだ生きている。」と、泣きそうになるのをこらえる。

2017年に市川海老蔵さんの妻である小林麻央さんが亡くなったことや、2019年に私の大学に近い池袋で、高齢ドライバーの車に轢かれた親子のニュースは私の心を締め付けた。おおよそ幸せだった存在が、これからも絶対に幸せになるはずとおおよそ確約されていたような存在がこの世から消え、私のようなかすかに、そして愚かにも自らの死を願う人間が消えないのはどうしてだろうと思った。なぜかすごく悔しかった。私が「本当にこの身と変わって差し上げたい。」と心から思い、涙した出来事だった。
「なぜ、私ではなかったのか。」

2019年の6月に19歳のはとこが亡くなったことも、死を考える出来事の一つだった。私と彼女は正確には一度しかあったことがないのだが、私の中の彼女の記憶は驚くほどに鮮明だった。天真爛漫で可愛い子だった。見た目は私や妹と同じような普通の子どもなのに地元で有数の名門小学校に合格し、その後も国立の大学まで進んだ“未来ある若者”だった。それにも関わらず、彼女は20になる前に死んでしまった。

安楽死についてのドキュメンタリーを見たのも衝撃的だった。スイスで安楽死をすることを選んだ彼女は、点滴のスイッチを握る。付き添ってくれた二人の姉を前に、
「ありがとう。幸せだった。」
と言って眠るように亡くなる。

 「今じゃないって言ったら確かにそうかもしれないけど、人間は結局いつ死んでも今じゃないような気がするのよ。」


こういうことがたくさん起こった。たくさんのことを聞いたし、見た。その一つ一つを考えると、「死にたい」なんて言ってはいけないような気がもちろん大いにするけれど、それでも、「私の辛さは、私にしか分からない。」と思う自分もいた。大人という年になって幾年か経って、そうやって、ただ毎日に溢れる死とのすれ違い(ここでは死にまつわる見聞のことを指す)に多く触れるようになって、私は自らの、死への憧憬をもう一度再考せざるを得なくなった。

そうやって考えてみた結果、私は以前よりも、“生きる自分”ではなく、“生かされる自分”を感じるようになった。

確かに私は、オーストラリアに行ったとき、なぜか大好きなチョコレート屋に行こうと言わなかった。リンツカフェ(修学旅行の時テロの現場となった。)はガイドブックに載っていて、「行きたいな。」と思ったのに何故か言い出さなかった。結局はそこでテロが起こり、実際にはあの日も、あのカフェで死人が出たのだ。東武東上線は私の乗っていたその日に車と正面衝突したけれど、脱線すらしなかった。震災の日は最も安全とも言える、学校の体育館にいた。1メートル先に稲妻を見たとしても、私の頭上には落ちなかった。

不運だらけの人生ではあったが、なぜか死はいつも私の横をすれすれで通り過ぎていく。

死ぬことに未練はない。出生の時の記憶が全くないように、死も大して辛くないのかもしれないと思うし、安楽死をした女性の言うとおり、「いつ死んでも今じゃないような気がする。」のかもしれない。

死んだあとに関しても、盛大にやって欲しいなんて思わない。ただ私の体を焼いて、その辺に撒くか、それがいやだったら家にでも置いておいてくれたらいいと思う。


死に対する憧れはいまだかすかに残る。気分の落ち込む日は特に鮮明に死を意識したりする。けれど、それでもどうしても、私はまだ自分の死の匂いを感じ取れない。私は何故か、まだ私の生を諦めていない気がする。


私は“生かされている”。そして、だからこそ、どんなにそれが辛かったとしても、その生を全うしなければならないのかもしれないと、考えるようになる。

4月16日、曇り。

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