”日常”について

私はここ数年「自分から人との縁を切る。」ということをしなくなりました。私はもともと”運はないけど縁はある。”というオリジナルの座右の銘を掲げているくらい、良縁、良い友人たちに恵まれてきたと思います。時々、変わった人(人がしないようなことを簡単に挑戦できてしまう人)なんかにも遭遇することがありましたし、本当にたくさんの種類の人々に出会って来たなと感じます。それは、私の中では大変な刺激で、仮にその人と何か衝突があったとしても、その衝突にさえ意味を感じてしまうのですから、基本的には、私は出会った瞬間に、人生のうちにその人と出会ったことを感謝するような人間なのだと思います。

しかし、出会った相手は当然、私と異なる価値観をもっていますから、中には「人との縁を切ることに全く抵抗がない。今までもそうしてきた。」というような人もいます。そういった場合、私が仮にどれだけその人との縁を切らぬよう努力したとしても、向こうから切られてしまうこともあります。

突然音信不通になって、別れの言葉もなく、一生会えなくなったり、ひどい時には、なんの話し合いもなく、「もう会いたくない。」とか言われたりします。

私は先日、そんな場面に遭遇しました。私自身も、もうこの人とは長く続かないのかなと思っていたので、長らく「ちゃんとお別れをさせてほしい。そのために、少しだけ私に時間を分けてほしい。」とお願いをしていました。

私は冒頭で「人との縁を切らない。」と言いましたが、もちろん、「出会った人々全員と死ぬまでつながっていたい。」なんて思っていません。人生の中では当然、一生会うことが出来なくなる人が何人も出てくることを、私はよく理解しています。(”死”はまさにそれを象徴するような出来事でもあり、それゆえ、人間は”死”に対して特別な感情を抱くのだと思います。)

さしずめ、私の中で、”別れ”は大きな意味を持ってしまいます。”別れ”とはすなわち、「その人の”生”を意識しながら、実際には”死”であるようなふりをしなければならないこと」であると私は考えています。私の人生に一度でも関わった人。未だどこかで生きている(であろう)が、私には一生その存在を確認することが出来ない。状態。

”別れ”の唯一良いところは、その気配を感じられることです。”死”は往々にして突然です。死の前に長く寝たきりになるような時間があることもありますが、それでも突然にやってきます。”別れ”の場合、前もって、なんとなくこの日だな。というのが決まっています。決まっていなくとも、その不穏な気配は、それが起こる前に、相手の表情や態度から少しずつ嗅ぎ取っていくことが出来ます。

そうなのであれば、その実質的な”死”の前に、私は出来るだけ、その人との思い出を良い思い出にして終わらせたいと考えます。私の頭の中のその人に関する引き出しにもうこれ以上何も入ることがないと知ったのなら、その引き出しに入っている少しの思い出を一生取っておきたい。いつかまたそこを開けて、その人のことを時々、「いい人だったな。」と思い出したいと思ってしまうのです。

しかし、私の試みは失敗しました。私には少しの時間も、その人にきちんと「さようなら、ありがとう。」と告げる時間も設けてはもらえませんでした。実際には、生半可に、「もう会えない。」と告げられただけでした。

私はそれすらも、仕方のないことと思います。単に私と向こうの”別れ”に対する価値観が全く異なっていて、今回は私の価値観が尊重されなかっただけのことです。私はそういう時、ただ仕方なくその突然の実質的な”死”を受け入れる以外に出来ることはありません。


しかし、その後、事態はさらに興味深い方向に転換しました。

昨今の、コロナウイルスの蔓延です。

コロナウイルスの蔓延で、多くの人がいたるところで、”死”を匂わせる緊急事態に直面することになりました。外出禁止を余儀なくされ、人々は今までのように他者と簡単に会うことが出来なくなりました。私も家にいることが多くなり、(結構エンジョイしていますが。)ウイルスよりも不況に怯える日々を送るようになりました。

ずいぶん前に「もう会いたくない。」と私に告げた友人が、私に謝罪のメッセージを送ってきたのは、そのころでした。「あのときひどい扱いをして申し訳ない。無事でいてください。」というメッセージを突然受け取り、私は驚きましたが、それは死んだ人の幽霊が突然メッセージを送ってきたときのような驚きでした。私にとってその人は、もうあきらめざるを得なかった人であり、実質的な”死”を覚悟した人であったので、それを受けて、何かを思うことが残念ながらほとんどありませんでした。

この、コロナウイルスの蔓延で、思うように人と会うことが出来なくなって、「大切な人との時間が~」とか「日ごろの生活のありがたみが~」と取って付けたように思い出すことがあるかと思います。

こういった流れは2011年の震災の時にもあったような流れだなと私は感じていますが、”日常”のありがたみを”非日常”の中でしか見いだせないのは、悲しいことだと思います。コロナが終わったら、多くの人々が”日常”に戻り、その「日常のありがたみ」の感覚は失われていくのだろうと思います。

そしてきっと、また今度次の”非日常”が訪れるまでの期間”日常”をぞんざいに扱い、”非日常”が訪れた瞬間に、突然、日常とその日々にいた他者の尊さに気が付くのです。

私は出来るだけ、”日常”のうちから、”日常”を大切にしたいと感じています。

私は人によく、「大好きだよ。」とか「出会ってくれてありがとう。会えて本当に幸運だった。」のようなことを恥ずかしげもなく伝えます。

それは、ただその瞬間に、私が感情的になっているだけではなく、いつ訪れてもおかしくない、”非日常”のために備えているのです。

人に感謝を伝えたり、思っている他人への気持ちを伝えたりするのに恥じらいを覚える人が多いと昨日友人から聞きました。そういう人は普段から人にそういうことを伝えることが難しいと。

もし、これを読んでいる皆様がそういった人の1人であるのなら、せめて、”別れ”を大切にすることだけ心がけたらよいのではないかと個人的に思います。(私の個人的な考えなので、参考にしていただく必要は全くありません。)

”別れ”を大切にし、感謝を伝え続けることには意味があります。

”日常”が”非日常”になっても、出会った人々のことを美しく思い出し、感謝できるようにするためです。

4月13日、雨

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