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田山花袋「蒲団」2-4

 2-3では、「蒲団」という作品には、「主観と客観を縒り合せる」という田山花袋の意図と試みがあった、という話でした。そしてそれは果たしてうまくいったのか?という疑問も残りました。

 そこで参加者の意見として、私小説が大好きなIさんに聞いてみました。

<テーマにあっている「3人称」 主観と客観の縒り合せ>

 
 Iさんは一つの仮定をします。田山花袋は男の愚かしさ、醜さ、みっともなさ、悲しさ、そういうものを表現し、テーマで書いてみようと思った。
 すると、それに相応しい書き方として3人称体というのが決まってきたんだろうし、3人称体が、時雄の事実誤認や勘違いぶりなどを、より協調する効果にはなっていると考えます。
 そう考えると、上記のようなテーマには、とてもいい書き方だと思うので、結果として作品のテーマを補強はしていると思う、といった趣旨で、『蒲団』の3人称体を高く評価します。

 その上で、韓国の大学で日本文学を教えているIさんは、学生といっしょに作品を読んでいる時に、共通のぼんやりとした印象が生まれてくることがあるが、その印象の原因は作品の中にあるのであって、(今回の皆さんの感想に会った)時雄が気持ち悪いとか、何かよくわかってないとか、その印象の原因もやはり作品の中に源みたいなものがある、といいます。
 たとえば、時雄がいて、芳子がいて、時雄が考える芳子の気持ち、芳子との関係性みたいなものが、最初に書かれているが、「少なくともそう男は信じていた」「判断しえられるものではない」とか書いてあって、それは怪しさを増強させるような書き方でわざとされている、と説明してくれました。

<「3人称」というルールで、時雄の勘違いが明らかに>


 さらにIさんは、野田の解説に対して、芳子のことについて、芳子はこう思った、こう思った・・・と書いてあるところは、自分は小説のルールとして、作品世界の中では事実なんだと思うと言います。
 3人称体で「芳子はこう思った」って書いてあるということは、「ああ、芳子はそう思ったんだろうな」というふうに読者は読んでいくわけです。
 ただ、それを丁寧にたどっていくと、やっぱり時雄が考えている、すごくお互いに恋し合ってた、というのはなくて、信頼しているとか渇仰しているとか、田中のことが好きだとか、書かれている。
 そうなると時雄が言っていることと、書かれている芳子の気持ちが合致しないので、時雄が、事実誤認、勘違いしているという印象が生まれるんじゃないかなと思ったんです」と解釈し、つづけて、

 「でも、さっき解説で、語り手自身も怪しい、という読み方を野田さんが提起してくださって、それはそれでおもしろいし、勉強になるなあと思って、語り手自体が、僕は、3人称っていうルールがあって、3人称の語り手が「芳子はこう思った」と言っていることは、(作品の世界では)事実だろうと思って読んでいたけど、そうじゃないかもしれないという考え方はすごく新鮮で勉強になりました」と補足しています。

 Iさんは、野田が作者の創作意図と作品の完成度という側面から立てた問いに、3人称小説の作品内での出来事の事実認定という角度から光を当てて解釈を試みています。いかにも私小説擁護派のIさんらしい、田山花袋に好意的な、と同時に大変説得的な意見ですね。

 実際、Iさんが言われたように、これを1人称で書いたらもっと嘘くさくなってしまうと思うし、3人称で書こうとして、田山花袋が主観と客観の問題を、どうにかうまく合わせながら、そこを何とか超えていこうとしている、そういう意図があったのは伝わってきます。
 確かにIさんが言われたように、「彼」(時雄)が、自分だけではそう思ったということがやたらと出てきて、何度も何度も反省させていて、なおかつ、語り手自身も言っていることが信頼できないというか。
 だからうまくまとまり切れていない作品ではある、少なくとも客観的にいろいろな視点を交えて描いた小説としては、あまり出来がいいとは言えないんですけれど、その分、私小説、ただの告白小説には収まり切れない部分は結構ある気はします。

 Iさんが田山花袋からの立場でいろいろ言ってくださるので、皆で田山花袋(時雄)はだめだなっていう雰囲気にならなくて、今回も貴重な意見となりました。


<モデル・同時代の女性像> 


 Iさんの話にあった「3人称の語り手のルール」を受けて、事務局のKYさん(女性)は、
 時雄が考える「芳子がこう思っていた」というのは、今の私たちだと「ありえない」って思ってしまいます。だけど、よくよく考えてみると、「こういう女性もいたんじゃないかな」と思えてきたといいます。
 つまり、「当時の男性中心的な価値観が内面化されていて、特にこの時代は男尊女卑で、そうすると自分は文学を志しているから、この先生に反発すると何か大事なものを失う、そういうことがどこかでわかっていて、それで本当にそう思ってしまう女性もいたんじゃないかと思った」というわけです。

 さらにKYさんは、芳子のモデルとなった岡田美知代が田山花袋に心酔していたという伝記的事実に着目し、もし、彼女が作家としての才能を見抜けるような人物だったら、さっきSさんが言ったように、創作しないのか、とあきれると思うが、でも心酔していたら師匠が何をしても、すばらしい、ファン心理みたいなものもあったんじゃないかと思う、と補足し、「だから、時雄が見ている芳子というのは、決してありえない女性ではないと、Iさんの3人称の語り手の話を聞いて、そう思いました」といいます。

 そして最後に、主観と客観の問題について、「主観と客観を超えて、という解説を聞くと、(この作品の内容はばかばかしい気がするが、)なんだか捨てられないという気もするんですね。尊さ、まではないけれど、チャレンジしている感じがしますよね。と、肯定的な評価で話を締めくくってくれました。

<まとめ>

 日本に西洋の「小説」が入ってきてから、いろいろな方法論と実践が行われてきたことを考えると、その流れで「蒲団」を捉えなおすのも面白そうです。
 また、同時代の価値観や考え方の中に、一度作品を戻して考えることで、今の私たちを振り返ることができそうですね。

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