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田山花袋「蒲団」2-3

 2-2では、特に時雄と芳子の関係性、時雄の一方的な気持ちが、芳子の視点で語る語り手に影響を与えているのではないか、という点について話がありました。
 しかし、芳子だけでなく、この小説では同じように妻の視点や父親(芳子の)の視点からも描かれている場面があります。
 つまり、田山花袋としては、文学的手法として一つの見方ではなく、いろいろな人の視点から描こうとしていた、そういう意図は見えるのです。
 今回はその文学的手法と田山花袋の意図、作品世界をテキストから分析していこうと思います。

<花袋の意図と試みー主観と客観の縒り合せ>

 当時の花袋の文学観を見ていくと、
・主観と客観の問題に非常にこだわっている。
・主観と客観の問題をうまく組み合わせて、というかそれを止揚して、主観と客観の両方を超えていく。

 そういう文章が所々見られる。だから、あえてほかの視点からも書こうと試みている感じです。今、「私小説」って言われているから、どうしても時雄の視点だけに目が行ってしまうんですけれどもね。

 例えば、最初の所からその客観の問題が出ています。

 前回も言いましたように、時雄自身は、芳子は自分の感情を偽っている、本当は師匠の自分のことを好きだったに違いない、芳子は本当は自分が良かったんだろうけど、成り行き上、心を偽ってあの、田中の所へ行ってしまった、そう考えます。
 しかし、そのあとに、

 けれど文学者だけに、この男は自ら自分の心理を客観するだけの余裕を有っていた。

 と断って、ひょっとしたら気のせいだったかもしれない、とも考え直す。いや、そっちが正しいよ、とついつっこみを入れたくなりますけど。

 ところで、この客観的な、傍観者的な視点について花袋は、この時期「露骨なる描写」という文章で、傍観者の視点で見てみることは大事だということを書いてもいるんですね。

 また、例の、酔っぱらって神社の境内に横たわる場面です。
 
 一方痛切に嫉妬の念に駆られながら、一方冷淡に自己の状態を客観した」と、一方では激しく嫉妬の情に駆られながら、その一方では同時に冷静に客観視していたという自分を意識しつつ、「熱い主観の情と冷めたい客観の批判とが絡り合せた糸のように固く結び着けられて、一種異様の心の状態を呈した。

 と言っています。
 熱い主観の情と冷たい客観の批判を両方持っている、文学者だからと、いうわけです。だから、この両方から見ようとして書いているということですよね。

<主観と客観の、その先 時の流れ> 


 そしてこの、主観と客観とがより合わされた異様な心の状態で、「行く水の流、咲く花の凋落」に思いをはせ、人間の儚さを感じて涙しています。つまり主観と客観をより合わせた心の状態で、それを超えていこうとするところに、「咲く花の凋落」や「水の流れ」があるのですから、主観と客観を超えようとして持ってきた視点は何かというと、時の流れなんですね。だから「時雄」なんですよ、きっと。この「時の流れ」って結構出てきます。フルネームの「竹中時雄」も竹藪の中にいて時の流れを感じる、おそらくそんな感じだと思うんです。

 主観と客観を縒り合せること、それがこの作品の意図だと思うんですね。だからそう考えていくと、わかるところもあるんです。

 あとの方のところで、芳子が田中との関係を告白して時雄に助けを求める手紙を出す場面がありますが、それを読んだ時雄の反応について、「その激した心には、芳子がこの懺悔を敢てした理由――総てを打明けて縋ろうとした態度を解釈する余裕が無かった」と書かれています。つまり田中と肉体関係があったことにのみ反応して頭に血が上り、芳子がこの手紙を敢えて書いた真意にまったく気づいていないこの時の時雄を、のちの客観的な視点から批判しているんですね。

 また前回も問題になりましたが、最後の方に、芳子を見送る駅のホームの場面では時雄には見えていない視点が出てきます。芳子との別れに際して、時雄が自分と芳子との将来について、妄想的な空想に耽っているのに対して、同時にその一方で、見送り人の中に田中がいる。時雄には見えていないが芳子とその父には見えている。これも主観と客観をより合わせた場面と言えそうです。

 このように、確かにところどころ作者が主観と客観とをより合わせることを狙っていたことがうかがえるんですが、作品の全体にわたってはどうでしょうか。うまく行っていると思いますか?

<まとめ>

 当時、田山花袋は、主観と客観を超えた先の視点を模索しつつ、それが「蒲団」という作品世界を生み出したことがわかりました。
 その狙いと結果は成功したのでしょうか。
 次回はそのことについて、参加者の意見をまとめながら解説していきます。


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