見出し画像

『SF/ボディ・スナッチャー』

1978年アメリカ映画
監督:フィリップ・カウフマン

電車やバスに乗っている時ふと周りを見回すとスマホに目を向け俯き加減で何が面白いのかよくわからないゲームをしている人々が目に入ることがあります。むしろそういう人だらけです。映画や本などのことを調べたりしようとSNSなんかを広くとやれ炎上騒ぎだの流行のナンタラだのが目につきます。そんな時私の頭にふとよぎるのがこの映画、『SF/ボディ・スナッチャー』です。

この映画は1955年にジャック・フィニーによって書かれた小説『盗まれた街』の二度目の映画化で、一回目は『ダーティハリー』で知られるドン・シーゲル監督によって出版直後の1956年に『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』というタイトルで映画化されており、それ以降約20年のスパンで再映画化を繰り返しているSFホラーの傑作です(ちなみに最近では2007年のニコール・キッドマンとダニエル・クレイグ主演で『インベージョン』として映画化されました)。物語は原作にしても映画にしても「宇宙から飛来した未知の植物によって街の人々が姿形はそのままの集合知を持ち合わせた感情を失った別人、偽物、通称“豆さや人間”にすり替わってゆく」という内容で、(原作者フィニーはその解釈を否定していますが)原作と一作目の映画化においては当時の“赤狩り”を隠されたテーマにしていると言われています。つまり、「あなたの友人、家族はあなたが知らない間に敵国ソビエトの共産主義シンパになっていませんか?」という恐怖をSF的に変換し煽っている作品なのです。

1956年版『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』のポスターIMDbより

ところが冷戦真っ只中の1978年に撮られた二度目の映画化である本作『SF /ボディ・スナッチャー』では政治イデオロギーの対立以上の所に、今の我々にも決して無関係ではない問題に踏み込んでいると思います。その問題とは“都市化による個々の分断”と“パラノイア”です。実際同じ内容に関わらず田舎町を舞台にした一作目(もちろんこちらも大傑作で大好きです)と大都会サンフランシスコを舞台にした本作ではガラリと雰囲気が異なります。例えば都会の雑踏の中、すれ違う数十数百の他人の中ぼやっとした虚ろな瞳の人とすれ違った時や陰謀論めいたことをがなりたてる人とすれ違う時に「関わらないようにしよう」と思ったことはないでしょうか?その無関心、無視の決め込みこそが本作における恐怖の根源ボディスナッチャーの繁殖地なのです。都会ならではのどこの誰かもわからない雑踏の中で少しずつ人々と意思疎通が図れなくなり、やがてそれが見知った友人にも広がっていき、逆にパラノイアを疑われる、でも確実に世界は厭な方向に変化していく恐怖を描いたのが本作なのです。

ではなぜ舞台はNYでもLAでもなくサンフランシスコなのでしょうか?それはこの街がヒッピーカルチャーの発信地だからではないでしょうか?ヒッピーカルチャーそのものを否定するつもりはありませんが、ベトナム反戦運動と呼応する形で急成長した若者たちのこのムーヴメントは既存社会を否定し、様々な地域から若者たちが都市に集まるようになり、結果的に個人主義を加速させました。その結果起こったことは地域共同体の破壊です。国(または世界)ー地域共同体ー家族ー個人と、世の中と個人が対峙する時のクッション材の役割を果たしていた共同体がなくなったことによって個人はどうなったでしょうか?乱暴な言い方をしてしまえば孤独になってしまったのです。地域という緩衝材がなくなり、世界とのコネクターが家と直接繋がり、その家族が機能不全に陥った際に個人は世界と直接対峙する必要があり、その結果残された道は世界に取り込まれるか、いわゆる無敵の人のように孤独になりパラノイアに陥ってしまうしかないのです(もちろん孤独ながらも抗い続けるという手もありますが…)。

この問題は決してアメリカだけの問題ではありません。むしろ、世界規模での若者の都市への集中によって今やこの問題は先進国の病と化しています。もちろん日本も例外ではありません、むしろ元来共同体が強く、家父長制も強い日本ではより酷いと言えるかもしれません。今の我々の社会を包む閉塞感、日々ネット社会をざわつかせる炎上騒ぎ、一度問題を起こせばその人が生み出した全てが全否定されるキャンセルカルチャー、自粛警察、あるいは“無敵の人”による凶行…。
繋がりを持たない人々の都市での共同生活とそこでの地域共同体の欠如によって世界は今や巨大な集団監視監獄パノプティコンと化しています。言いかえれば多くの人々は異質、異端として社会から排除されることを恐れながらも炎上騒ぎに盛り上がり、他人を不審に思いながらも感情を殺し、その他大勢の均質性に溶け込むことを良しとしている。その世界は『SF /ボディ・スナッチャー』の世界から“豆さや人間”というSF要素を省いただけの世界ではないでしょうか?映画の後半、主人公たちは豆さや人間にバレないように彼らと同じように“空気を読んで”感情を殺し、集団に溶け込もうとするシーンがあります。スマホこそ登場しませんがどこか今の世界と似ていると思いませんか?

それこそパラノイア的な不安なのかもしれませんが、“私は世界から洗脳されず、真理を捻じ曲げて“空気”に染まることを良しとせずにいつまで私のままで居られるのか”とふと考えることがあります。そしてまたネット社会による人々のさらなる分断によって世界は今やボディスナッチャーの繁殖にもってこいの場所になってしまったような気がします。約20年に一度映画化されているこの物語が再び脚光をあびるのはそう遠くない未来だと私は思います。

この映画は問題の解決を示す物語ではありません、しかしながら世界を俯瞰的に、斜めから観察する際の指標として非常に重要な作品と言えるでしょう。私が、あなたが、この世界において“豆さや人間”なのかそうでないのかの判断材料になる怖い怖い映画についての思考でした。


この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?