見出し画像

濫費の肯定

ギズモ(ガジェット)の追求

 ボードリヤールは、現代社会が強力なテクノロジーを追求し、それがますますギズモへの執着を促しているという。例えば、最新のソフトエアを走らせるのにはすぐにパワーが足りなくなるパソコンなどがそれである。

 最新のギズモを買いに行って、その「性能」を自慢したところで、そのギズモは先が見えていることを、私たちは知っている。明日になれば、次のアップグレード・モデルが出るのだから。私たちの消費は、同時に破壊でもある。 
リチャード・J・レイン2006:68

社会的な浪費行動 

 こうしたギズモの追求は個人的なレベルに限らないと言う。現代社会最大の浪費は、最新の軍事テクノロジーにかかる出費であり、というのも軍事的な物の生存期間は、生産ラインから出てきた瞬間には時代遅れになっているため、事実上ゼロに等しく、そのうえ、戦場では破壊され、消耗し、使い尽くされたり、発展途上国に売られたりするのである。これを引き起こしているのは、西欧と非西欧の軍事技術の巨大な不均衡さであり、このことが戦争を抑止しているのだという。

浪費の普遍性

 メディアは、このような行き過ぎた、浪費だらけの消費は「悪」であり、環境に損害をあたえる(経済的にではないが)と主張する。そのことで浪費は、現在のためだけに生きる主体の過剰で、異常な行動であり、人類共通の有限な資源に取り返しのつかない損失をもたらすものと一般に見なされている。
 しかし、なぜ我々はこんなにも浪費したがるのか。ボードリヤールは、ポトラッチや貴族階級の浪費にふれながら、このような浪費に満ちた生活のほうが普遍性をもつとして、逆に浪費の普遍性という点から現代的な功利主義を見直す必要があるという。

合理主義者や経済学者が作った効用という概念は、もっと一般的な社会の論理に従って見直されなければならない。この論理では、浪費は非合理的な残滓であるどころか、高度の社会的作用として〔…〕積極的な機能を果たし、ついには社会の本質的機能と見なされることになるー支出の過剰な増加、余剰、儀礼的で無駄な《役に立たない出費》等は、個人的領域でも社会的領域でも、価値と差異と意味とを生産する場所となるだろう。
Baudrillard 1998:43(邦訳1995:39-40)

自己保存を超えた意味の生成

 ボードリヤールはまず、人間社会は根本的に、生き残り(自己保存)をめざしているのか、それとも個人的または社会的レベルで「意味」の生成(富の濫費)をめざしているのか、どちらにもっとも関心があるのか、と問いかける。
 この問いはプリミティブな社会も進歩した社会も根本的には生き残りをめざしているという素朴な発想を問いなおすことをねらっている。つまり[自己保存の本能]の拒絶というラディカルでニーチェ的な発想を導き、保存と蓄積という経済原則と対立することを目的としている(Baudrillard 1998:44)。
 ボードリヤールは、ニーチェの自己保存が単なる副次的結果にすぎないものとした「権力への意志」を「余分ななにものか」という拡張概念に取り込み、生活の本質的な要素とは、まさに生活を道徳化する「必需品」を超えた、この「余分ななにものか」を達成することであると論じた。

コメント
 この指摘は、人間は究極的には、人間以外の生物一般に見られる「生きろ増えろよ」という生命原理ではなくて、自己保存よりも意味の生成を目指しているというものだ。もっと過激に言えば、人間は究極的には自己保存よりも象徴的な死により社会的意味の獲得する方を選ぶ生き物だということになるだろう。

生活の豊かさとは

 ボードリヤールは、「所有すること」の社会的威信と象徴的価値を規定するために、豊かさと浪費のための構造モデルを設定する。このモデルでは、豊かさとは、何かがそこに「じゅうぶんに」あることによってではなく、役に立つレベルを超えて、そこにあり過ぎることによって規定される(Baudrillard 1998:45)。
 ここでは浪費を、資本主義システムのある種の不要で危険な副産物としてではなく、むしろつぎのように規定される。

 希少性に挑戦し、豊かさを逆説的に意味づけているのはこの浪費である。効用ではなくて、この浪費の原則こそ、豊かさの中心的な心理的・社会学的・経済学的図式なのである
Baudrillard 1998:45
ポトラッチによる威信のせり上げによって生じる象徴的価値とは異なり、西欧社会において、浪費はなによりも大衆消費を刺激するために加速されるのだ(1998:46)。
リチャード・J・レイン 2006:72

コメント
 最後に言われていることは、ポトラッチは個人や集団同士の大盤振る舞い競争によって社会的威信や象徴的価値をかけるが、現代社会にあるのはガジェットを買うことで価値がゼロとなる消費形態であり、ガジェット生産の浪費が大衆へ消費行動を加速させているのだといったことだろうか。
 ボードリヤールは消費の仕方に着目するが、同時に生産の仕方にも着目する必要があるのではないだろうか。例えば石器時代では、生産した分だけ財を所有できるが、その生産の仕方はどうであろうか。ボードリヤールの理論からすると、所有物は、役に立つレベルを超えて、そこにあり過ぎることが豊かさの象徴であり、望ましいとされる。それは量でもデザイン(質)でもある。この場合の生産とはやはり過剰であり、浪費的でなくてはならないであろう。石器時代の生産の場とは基本的にそのような性格を持つものである。石器時代の場合、生産の場がそのまま財の保管場所であると同時に対外的な豊かさ示すの象徴的な空間でもあってもおかしくないことになる。
 所有した財の消費の仕方として典型的なものに長野県神子柴遺跡がある。神子柴遺跡では使用可能な優れた形態の石器がまとめて廃棄された状態で発見された。これはボードリヤールの理論からすると意味生成のための典型的な濫費と捉えることができ、そのためには意味の受け取り手である他者あるいは他集団が存在しなければ成立しなかったであろう。石器時代のこうした物の在り方について合理主義的な経済原則を信じる研究者にとってはまさしく特殊性として映るであろう。

長野県伊那市神子柴遺跡出土の石器 16000年前
 神子柴遺跡から出土した数々の石器は、使いみちは何であれ実用品としてはつくりが念入りすぎるようにみえる。


引用文献

・Baudrillard,Jean(1998)[1970]The Consumer Society: Myths and Structures, London: Sage.〔今村仁司・塚原史訳1995『消費社会の神話と構造』紀伊國屋書店〕
・リチャード・J・レイン〔訳:塚原 史〕2006『ジャン・ボードリヤール』青土社

関連記事

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?