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三匹と三羽『野良犬』を観た人間の思い至り

 2021年12月11日14時の回を観劇させていただきました。人間の弱さ、そしてその弱さを人に見せられない不器用で愛の足りない人間の、事の顛末を目の前で詳らかにされました。心がキュウッてなって、とても良かったです。(以下ネタバレを含みます)

公式サイト


あらすじ

砂混じりの茅ヶ崎。
会社員として淡々と働く那央と、
定職に就かずふらふらと生きる友人・朱音と優吾。
冷えて乾いた海に背を向けて、3人はいつも同じ酒を呑み、同じ歌を歌い、同じ言葉で笑い合っていた。
しかし、那央は迷っていた。
自分と彼らの間にある、ぼんやりとした、しかし明確な溝。
この先の生き方に悩んでいたそんな折、
彼は夜の街で働く一人の女性と出会う。
曖昧な友情と、モラトリアムの終わりを描く、
ひと冬の愛憎空回るヒューマンサスペンスコメディ!

公式サイトより引用


 舞台の形は三段になっていて上手奥が一番高い形。一段目はただの床。正方形の平台が四つくっついて正方形になっているのが、三段目は下手前だけ欠けていて二段目になっている。舞台上には3つの椅子(スツール?)だけ。暗転も少なく、場面転換が多いのに映画のようにスムーズに切り替わっていて私は好きな演出だなあと思いました。

 詳しいストーリーとしては…。冴えない大学生の那央が健吾とその恋人の朱音と仲良くなる。その後那央は営業として就職、健吾は料理人を目指していて、一つ星レストランにヘッドハンティングされ、そこで働くことに。しかし、そのレストランの厨房が若手に対する理不尽な扱いに溢れていて、健吾は料理人自体を諦め、酒浸りに。朱音は支えようとバイトを増やすが健吾はキャバクラに通い金を使い、朱音に高圧的な態度と暴力を振るうようになっていった。那央は見かねて朱音と会うようになり、やがて二人は恋人になる。しかし、すでに朱音は人の優しさを信じられなくなっていた。那央は献身的に支えようとするが、愛が返ってこないことに耐えられず、二人は別れる。

 他者に信頼を置くことが苦手になるような家庭環境・子供時代を送ってきた那央と朱音が、一緒になってしまったとき、どちらも似ているから上手くいかないだろうなあ、と思いました。そしたらやっぱり。朱音が「ごめんね、私の話が面白いわけないし」と言ったときにどうして那央は朱音の手を握って、真剣に目を見て「大丈夫だよ、僕のために聞かせて」と言わないのか。好きだとは伝えていたけれど。どうして那央が「僕と一緒にいない方がいい」と言ったとき、「そんなことない、一回落ち着いて、冷静に」と言わないのか。そんなことはわかり切っていて、二人はそれを言われる側の人間であって、誰かを支え、誰かが欲しい言葉をパッとかけてあげられる人間ではないからでしょう。だって、自分の主導権が自分にあることも大変なのに、誰かの心のハンドルを握るのなんて、恐怖で足がすくんでしまうから。

 人に優しい人ほど傷ついて、どんどん再起不能になっていく。正直者が馬鹿を見るはなし、現実的に感じてしまうのがすごく悲しいですね…。私は好きです。

 もちろんコメディとしてもしっかり面白くて、「この子すごいよ…もう空を取り込み始めてる…」とかがありそ~~ってなりました。笑えました!

 ふと、これは映画じゃなくて舞台であった意味を考えたくなりました。映像であるよりも、演劇であることの重要性とはなんでしょうか。(ここに、特にこの作品に対するマイナスがあったわけではなく、ただ映像化しやすそうなシナリオに思えただけであることを言い訳させてください…。)

 まず、改めて一般的な「映像作品」と「演劇」を比較します。映像はカット割りによって時間や場所をすぐに切り替えられたり、役者の表情や手のヒクつき一つまでしっかり見せることができます。一方演劇は、空や海を実際に映さなくても観客が想像することでどんな場所も作り出すことができ、生身の役者と観客が同じ空間にいることによる臨場感や緊張感を作り出せます。…なんて、n回論じられているのでしょうが。
 今作は、ジャンルとしては「ヒューマンサスペンスコメディ」とされていて、ファンタジーではなくリアルな世界で、会話を主として進んでいく。そんな今作において、比較したいのは「観客の感じるリアリティの強さ」です。
 こうした作品の感想として多いのは、「身につまされる」「自分事のように思う」「過去を思い出した」などなど、自分自身の体験と重ねることです。それは、どうして起きるのかと考えると、演劇のもつ余白の力があると思われます。
 今作で言うと、舞台が茅ヶ崎であることから冬の夜の海の描写が何度か登場します。大学生の友達とだらだら喋った海岸、彼女と初めて行った砂浜。仕事終わりに立ち寄った海。どれも舞台上の変化はありません(あったかもしれませんが私はそこまで見切れませんでした…)が、観客にとってはそれぞれ違う海に見えている。しかもそれは、自分の記憶をもとにした海なので、聞こえる波の音も、感じる風の冷たさも、誰もが違う海を見ている。
 こうした効果は、「笑いの大学」の演劇版と映像版を比較した時にも感じられます。演劇版では、場面転換はなく、家での出来事や劇場に行ったことはすべて二人の語りによって観客に伝えられます。それにより、観客は映像で見るよりもより具体的な映像を脳内で再生します。
 映像であれば、どこも実際にロケに行って、最適な時間を待って、あるいは光を作って、撮影するため、作り手の理想をしっかり表現することができます。しかしそこに余白を持たせることによって、より観客の記憶を喚起させることができるのが、今作が演劇であるもっとも重要な意義なのではないでしょうか。

 つらつらと書いてしまいましたが、要するに、観てよかったです。役者さんのお芝居がどの方も本当に素敵で、岡野桃子さんの空を取り込んでるところとか、犬相手に喋ってる孤独さとか、すごく素敵でした…。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。

瀧口さくら


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