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ゆうめい『ハートランド』という鏡を観た人間の眉間の皴

 2023年4月22日13時の回を観劇させていただきました。ゆうめいさんは以前『姿』再演を拝見したのですが、そのときとはだいぶ視座の変わった作品だと感じました。それもそのはず、今回は実体験をもとにせずフィクションであるとのこと。実体験から演劇を作ってきた作・演出の池田さんご自身に対して、自戒のように包丁を突き付けながら作られたように感じました。そんでもって、私は私を刺しました。(以下、ネタバレを含みます)

ゆうめいHP

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あらすじ

数年前、『ハートランド』という名の映画の公開日。
劇場映画をビデオカメラで撮影し海賊版の制作をしていた
須田(相島一之)を映画館で捕まえた岡(鈴鹿通儀)。
岡はそれを機に、商業映画の監督である父の影響もあり、
映画に興味を持ち監督を志す。

数年後、岡は俳優の相葉(児玉磨利)とのモキュメンタリーを
撮影しに相葉の地元へ向かう。
相葉の幼少期から馴染みのある、映画のタイトルと同じ名前の店、
ハートランドに寄ることになった。
そこは昼間はブックカフェ、夜はバーやライブスタジオ、
そして駆け込み寺である。
様々な背景を抱えた人々が集まり和気藹々としている、
俗世とはかけ離れた場所だった。
久々に訪れた相葉だが、様子が変わっていることに気付く。
マスターさえいない。

夜、相葉の知り合いである江原(高野ゆらこ)と
羽瀬川(田中祐希)を含めた4人で鍋を囲む。
ハートランドに外国人のユアン(sara)が駆け込んできたことにより
関係が崩壊した話が告げられる。
そしてユアンに惚れ込んだ人たちの中に、かつて自分が映画館で捕まえた
須田がいることを岡は知り……。

公式サイトより

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 当日、到着がぎりぎりになってしまい前情報0で観たのですが、提示される情報処理にかなり脳みそのリソースを割きましたね…。これはあらすじを見てから、あるいは当日はやめに行って、当パンを読んでから見ることをお勧めします。

 この作品は、今ここにいない人についての語りで進行していきます。それがもう説明対象を知っている人同士で行われることも多く、そうなると、主語・述語がないまま会話がなされていて、リアルでありながら読解にちょっと時間がかかりました。私は、人の会話を覗いてる感じがして好きでした。

 美術が凝っていました。ハートランドの各部屋がレベルごとに区切られている。この高さの違いが、登場人物の劣等感とか、関係性を暗に表してるシーンもあった、と思います。
 一番大きなブロックの下は引き出しになっていて、トンネルにもなって、ゆうめいっぽいなと思っていたらやっぱりアフタートークでも言及されていて、やっぱりと思いました。
 あと、センターの時計。具体的な時間を表している(作中、役者がこっそり動かしているそうです)のもそうですが、過去に確執がある人間が多い中で過去という意味で時間を象徴しているのでしょうか。演劇はだいたいが現実の時間と同じ時間軸で進まないので、時計が実際にあるとそれだけで意味が生まれるから面白いですよね。

 音響(BGM)が全然ないなあと思っていたら、後半怒涛のように音楽がやってきて、音楽ぢから…。saraさんのすばらしい歌唱はさることながら、エモーショナルにクイーンの音楽を使うあたり、売れてる曲を使って人は感動しちゃうっていうこの構造自体が包丁でしたね。

 あ、開場中に紗幕が閉まっていて、そこに映画の予告が映ってるんですよ。ガチの奴。それ広報としてめちゃいいな~と思ってたんですが(絶対ターゲット被るし)、映画泥棒が来た瞬間、あ、映画館なんだってわかりましたし、客席で乱闘が始まったときは、あ、もうこういうのコロナ的にやっていいんだって思って、嬉しくなりました。紗幕の回収に来たスタッフさん、舞台監督の方ですよね?

 「息子の推し」っていうセリフ、すごく好きです。推しという言葉に対してジェネレーションギャップがあったであろうにそれを乗り越えて息子の痕跡を探している岡。しかし、その息子さんはあなたに読まれたくなくて、こういう手段で遺書を残したのでは?と思って、やるせなくなりました。いや。残してないのか。

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 さて、そろそろ本題というか、この作品のコンセプトについて触れたいところです。作品のために他人の人生を搾取している、ということについて。

 私事になりますが、先日作演出をした公演を打ちまして。それは私と周りの人の体験をもとにした話でした。作品にする許可はとってます。
 現実ではどうにもならなかった、できなかった過去の出来事や過去の自分を、どうにかして、作品として昇華したい。これが、私のモチベーションの一つでした。自分が気持ちよくなるだけじゃ自慰と変わらないので、その点は多少気を付けました。が、経験不足と、今後もう書くつもりがないので全部やろうと思ったこと、あと面白くするために要素を絞ると一人が生まれて生きてるだけで困難降りかかりすぎワロタにならなくなっちゃうので…。まあ、上演の目的を面白くするか自分のためにするかって感じではあるんですけど、堂々巡りが始まっちゃいますね。

 他人の人生のしんどさを面白おかしくしてしまうような、その人に対して失礼な作り方はもちろんしてはいけないとは思います。それは搾取、消費、消化と言えるでしょう。ただ、本人が許可を出していて、かつそれを望んでいる場合は、昇華とは言えないでしょうか。
 …なんて、私は私にとって都合のいい解釈を、正当化をしてしまいますが、しかし今作はそれをせずに、「実体験から物語を立ち上げる」ことに内包されている問題を懇切丁寧に暴き立てていたと思います。だから私は私を刺すしかなかったです。
 一度加害者になった人は、自分を許してもいいんですかね。あの人は身軽に出て行ったけど。

 作品至上主義は滅べと思ってますが、作品を愛して向上を目指す気持ちは全員が持つべきであって。その「全員」に、作品の素材を提供する人は含まれているのでしょうか。

 フィクションであっても、その物語には作家が経験したことが大なり小なり含まれていて、その経験は十中八九他者が関わっていて、そうなるとその他者に対して作品はどうあるべきなのでしょうか。

 うーん。

 今後どう演劇に関わっていくにしても、これは考え続けていきたい問です。私なりの暫定の答えは、多分そのうち。


 ここまで読んでくださってありがとうございました。

瀧口さくら

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