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災厄のなか「まちの居場所」を想う

気がつけばCOVID-19に振り回されている今日この頃。目下の問題はさまざまあれど、ここでは自分の視点からみた中長期的な眺めをメモしておこうと思う。

「交流」のパラダイムシフト

世の中の動きを眺めていて、はじめは「東日本大地震の時と似ているな」と思っていた。けれど、それ以上の影響があるかもしれないとも考えはじめている。なによりもまず今回は世界規模だ。しかし、この災厄はそれだけでなく「あらゆる人々の意識と行動により強く影響を与える」のではないかと感じさせる。その影響とは人・物・事すべてにおいて「非対面の交流を“日常”に変える」ということだ。

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もちろん非対面の交流はインターネットによって加速していたことで、いまに始まったわけではない。けれど、これまで「ひとつの選択肢」にすぎなかったあらゆる非対面の手段がCOVID-19という脅威によって「必需」となり、急速に「日常」に近づいたように感じる。

これはひとつのパラダイムシフトになりうる。人々の意識が変化すれば、これまで惰性的に対面(オフライン)で行われていた行動が、積極的に非対面(オンライン)に移行していく。それは例えば、在宅勤務やネット通販が自然な選択として日常に定着し、通勤や買い出しのほうが例外的な行動になるということだ。

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仕事が自動化され人間の知的活動が増えていくことや、地球規模の資源の効率化などを考えればこの流れは必然だった。しかしそうはいっても、それはもっとなだらかな変化だと想像していた。もちろん日本の現状をみれば、幸か不幸かそうした変化への抵抗は根強そうだ。それでもCOVID-19の脅威によって、これまで「未来の予測」だったものが「明日の現実」くらいに引き寄せられたように感じる。

「まち」での交流が減っていく

意識が変化し非対面の交流が日常に定着するにつれ、人々の「まち」における流動は鈍っていくだろう。いまでいう「コロナショック」のような作用が、より穏やかではあるにしても定常化していくことになる。

これまで対面の交流を担ってきた、カフェや小売店から公共施設まで大小さまざまな「まちの居場所」は、人々の流動を成長の前提としてきた。非対面の交流が日常となれば、それらの施設は徐々に縮小や撤退を余儀なくされる。

いまのショック状態が去ったとしても、人々の意識と行動が「COVID-19以前」に完全に戻ることはないと考えたほうがいいのではないかと、わたしは思う。

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これはわたし自身にも大きく影響する話だ。かもノすでもまさに「まちの居場所」をつくろうとしているからだ。人々の流動が鈍っていくなかで対面の場を新たにつくるのは、時代に逆行することだろうか。

結論からいえば、わたしはそこまで悲観していない。

今後「まちの居場所」から失われていくのは、そもそも対面の必然性を失った、非対面に置きかえられる交流だ。絶対的な対面の機会はいまより減る。しかし同時に、人・物・事に対面する価値の本質があぶりだされてもいくだろう。そうして残されていく「対面の価値」はより密度の高いものになるはずだ。

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これからの対面の価値

ただし、そうした流れのなかで「まちの居場所」を運営していくなら、その経営における「常識」は手放していく必要があるだろう。これまでの手法は人々の流動の活発化を前提とする。そのままではジリ貧だ。環境が変化するなら、それにあわせて能動的に進化し「非対面時代の対面の価値」を示していく必要がある。これはペーパーレス時代の紙媒体とおなじようなことだと思う。

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こうした考えは以前から「店舗のメディア化」といった言葉で説明されてきたことと大きく変わらないだろう。もっと視野を広げれば「循環型経済」のような話にもつながるかもしれない。いずれにせよ、今回の災厄によって「非対面」が「明日の現実」になり、より思い切った転換の機会がみえてきたように感じる。

非対面が日常になったとき、残される「対面の価値」とはなんだろう?それを提供する「まちの居場所」はどんな姿になるだろう?ここで答えはだせない。それは現実と向き合い実践をもって示していくしかないだろう。

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またどこかの「まち」であなたと出会えることを楽しみにしつつ、まずは誰もがこの災厄から救われることを祈っています🦆

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