見ること、聞くこと、話すことは分かちがたく結びついている。凝視することによって肩回りは緊張し、肩や顔に輪郭ができて「今ここ」に集中される。興奮する顔面周りの神経。上がってくる血液。体温が上がり、乾く喉。充血して軽く腫れる鼻の粘膜。ゆっくりと話すことによってそれらの緊張は緩み、視野は少しぼやけて鼻の粘膜の腫れは引き、景色は白く晴れ上がる。「色は匂へど」というが、凝視しているだけでは乾ききっていた視野は音のそよ風に吹かれてほのかに馨る。思考することは、言葉を使うことは、事実を固定したり、切り刻んだりしてしまうだけではなくて、生きること自体のプロセスなのかもしれない。真実や真理の追及姿勢や、正直さが美徳とされるのは一つには暴力によって物事が決まってしまわないようにするためであるから、討論は暴力を抑止するための力でもある。だから話の通じない相手や論点をずらしたり、話を2点3点させる人に社会は猜疑心を抱く。
しかしまた、彼らもそのような形式に従って追及されることを恐れている。
中には道をたどっても討論の主題についての是非に結びつかないような話題を「マジカルバナナ、バナナと言えばブラボーバナナ!ブラボーバナナと言えばブラボー!!」のような方法で持ってきて最悪の場合主題を相手の人にすり替えてその人に関係のある話のあれこれをもってきて「主題の提供者がそんなのだから説得力がない!!よってこの討論はしても無駄だ!!あなたが間違っている!!」としてしまう。これは討論に勝つ知恵ではなくて、討論をしない知恵である。「論破」とは相手の主張の不十分さを実証済みの事実を使って指摘することであり、論破される側だけでなく論破する側の知識量や思考の柔軟性にも左右される。例えば僕は「アンフィコエリアスという恐竜がいる。」と小6の頃のポルトガル語の授業で言ったことがあるが、その時に先生は「sauro がつかないは恐竜じゃないよ!!」と言って譲らなかった。僕の授業態度はひどく、前でやる自己紹介はまるでコメディ演劇。座禅を組んで授業を受けているし、ゴム銃で友達を射撃して先生に鼻くそをつけていた。つまり、授業に誠実でない僕は先生よりも恐竜の知識があったけれども先生は情報源に信用を持てなかったから「アンフィコエリアスは恐竜である」という命題を偽であると主張したのだろう。


また、このような場合も考えられる。
経験則に実証が追い付いていないような主題は相手側が試してみるほかないことも多い。よってこのような場合は主題を命題として捉えるのではなく「○○かもしれない」と輪部をぼやかしておいていろいろ想像しながら話を膨らませてセッションしていくべきだ。これを議論といって、討論とは区別される。議論では正誤をつける必要はなく、相手に影響されて意見を変えるのも楽しさの一つだ。場合に応じた「最良の終結」を納得のいくまで追求していく。宝探しのようだ。

新発見の可能性は勉強するほど消去法で現れてくるものも多いが、そもそも勉強によって学ぶことのできる「事実」というものの性格を分かっていない場合には新発見の可能性が閉ざされてしまうこともある。一番達が悪いのは「事実を学ぶことによって知の完成に近づいている」という考え方だ。確かに、実証済みの物事を多く学ぶことは経験をしなくてもある種の経験則を得られるようなものだ。しかしそれは例え知識ではなく手法を学ぶことであったとしても、生きる過程で良い作品を作ることができることを保証はしてくれない。
「議論」の方では「ただの感想」も私とあなたに十分に知識と想像力があれば、貴重な「他者の視点」として物語に組み込むことができると思うし、むしろどんなことでも納得のいくまで正直に話すのがいいと思う。

童話は動物と話す人々や森の伝説について多く描いているが、数十年前まで動物の言語は否定され、知性もかなり低く見積もられていた。しかし近年では鳥はダンスを踊って文法を理解するばかりか、魚類の中には妻の前でだけは他の女性の前で体裁を整えるものもいたり、彼らのうちの少なくない種類がリズムや周期性を持った「意味のある」鳴き声を発することも実証されている。科学も哲学も重大な社会的事業とはいえ人の営みである以上、完全には公平でも客観的でもない。急ぎ見る必要のないものや、見たくないものについては蓋をするのだ。

迫りくる自然界の脅威に名前を付けても、その名前の出元は津波や地震、マントルの活動を目の前にして圧倒されてしまう。だから自然現象の一部であるである認知過程が自然を認識していることにはならない。日本語について日本語で議論することなどについても同じだ。鶏が先か卵が先か、我々が考えるべきは「何をもって鶏とすべきか」、そしてもっと言うならば「それは食べられるのか」である。


真実というマークはすべての「良いつながり」において重要なものだが、
真実を見定めるには人間は小さすぎるし、人生は短すぎる。

カメラと鏡、身体、(楽器があれば手っ取り早い)想像力、内向き+外向きのプロセスと向き合う観察力、自分を揺るがす大きな何かさえあれば、旧石器時代から数千年先までの宇宙観を1時間で見渡せる。

名前に馨りを感じなくなったら、もう一回森を散歩しよう。




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