時空を揺るがそう

かの偉大なタマムシ大学卒業生であった小便・イナバウワー氏は
「哲学史に残るかどうかは正直ウンっすね。」と皮肉交じりに大弁した。じゃあもううまくいくかどうかは別としてこれだと思うことを好き勝手やってやろう。哲学者だと自信をもって名乗れる人なんて哲学学者の中にはそうそういない。天才のケツばっか追っか追っかけるのはつまらない。

ミュージックアワー、それではまずは時空観でいってみよう!時代に応じていろいろな時空観がある。24節季とか、陰暦、太陽暦、絶対空間・時間。光を基軸にした時空観はパーセクレベルの規模の現象をうまく説明できる。もう時空(異なる出来事同士のメタファー)ではなくて重力や光をメインテーマというか場の主題にしてすべてを組みなおしてもいいんじゃないの?(だめなの??)私のあてずっぽうでは光や重力は存在者の側の問題もからんでくるのではないかと思う。我々を我々足らしめている存在感覚をそのまま時空に投影したものが重力だと思うし、光しかりだ。両者はケースの外と中をつなぐこんちゅうけーすの蓋なのかっ???


純粋持続の場とかdaseinとかいろいろあったね!!

いろいろありすぎてちるのもうあたまばくはつしそう!いいかげんにしないとれいとーするわよ!!


ほうほう。そーともゆーっ!!


では私の持論を紹介。仮にそのずっと続く存在者の移り行くさまを大雑把にここでは純粋存在Σ(N)としよう。Nは無数にある状態の取り方を規定する変数だ。ここで純粋時間τ(∑)はΣ(n1)とΣ(n2)の差異として補集合であるΣ(N-(n1+n2)によって差別化される。



純粋存在と純粋時間の誕生

純粋存在は不確定なものだが「ある領域を取りうる」「境界を持つ」ことだけは分かっている。しかしψは大概離脱した魂と天の神の領域でその人でありながらも我ならざる者の領域だ。

形而上学や超科学はψを、哲学はΣ(N)より内部を、科学はさらに光によってできた像であるσ(N)を扱い、それらの差異は純粋物理時間τ(σ)によって差別化される。

科学と純粋存在の場の関係



科学的実体は純粋存在によって基礎づけられているかどうかが肝心だと思う。

科学的な「実体」と「非実体」


精神体験

純粋存在は他者の働きや精神収斂などによってψの領域をかすめることがある。これが精神体験だ。これには非常に個人差があるように思われる。ψとの共通部分は階層違いで重なる。つまりψの影が∑に映り込む。神秘体験や昏睡状態ではその影の輪郭や色濃さが頻繁に観測される振れ幅を大きく上回っているだろう。これは上図のように科学的実体ではなく、科学的実体とは階層違いで逆向きの射影が精神的実在である。ψとσの階層の上下は場合によって異なり、その高低差や上下関係がモノと精神の関係の様々なとらえ方の可能性を生み出すというモデルはどうだろうか。


まだまだ原案。始まったばかりのあかちゃんである。どうか見守っていただきたい。


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