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コエロフィシス(生活と恐竜舞踏)

生物とはかたちに呼び起こされた僕らの意志だった。今こそ、本当の生命の学を立ち上げたい。そこで僕は感じたことをシェアして作っていく、そういう一人一人の感覚世界で織りなしていく自然観であるphysis(フィシス)を大切に、「恐竜舞踏」と言う概念を提唱します。どんなものかはご想像にお任せします。(詳しくはまた別の記事で。)

さて、僕がフィシスと聞いてまず思い浮かべるのは、「コエロフィシス」と言う恐竜です。地質時代でいうところの三畳紀後期からジュラ紀前期(2億1600万年前から1億9600万年前)のニューメキシコ州にあるリオ・アリバ郡ゴーストランチと言う地層からはコエロフィシスの化石が大量に発掘されているらしいです。

ニューメキシコ


ゴーストランチ

コエロフィシスには直立二足歩行動物の進化傾向として顕著な「上肢の縮小」の片鱗が見られます。4本あるうちの指の1本はほぼ機能しておらず、頭骨は多くの空洞が開いて軽量化していました。そんなCoelo-physisは日本語に訳すと「中空なかたち」です。


さて、僕は一人一人が身体感覚をつかみ取っていくことでNature(しかけ・しくみ。理性的な近代的自然)から分かれていった「physis(未開の自然、かたち)」をもう一度取り戻し、自然と非自然の間に自己を介在させることなく、自然をかたち作ったり、自然にかたち作られたりする円環的な主体感を一人一人が取り戻すことができると考えています。


それではいよいよ、そのための具体的な取り組みを少し紹介します。
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さて、僕がこのような関心を持ったことの一つの端緒としては僕は子どものころから散々美しい生き物たちが格好良く生きている姿の紹介されるテレビ番組を見て、「人類」として生まれたことにコンプレックスを抱いていたからでした。人類を、人生をこんなにも孤独でみじめにし、おびただしい数の生命を虐殺してきた種族に生まれたことを恨み、人類の行く方向に希望が持てずサボって反抗ばかりしていました。どうして僕たちだけが野蛮であることを注意されなければならないのかと不満を抱いていましたし、今でもすごくあります。そこでなぜこのような食い違いを感じてしまうのか、僕は日々生活しながら思いを張り巡らせました。たどり着いたそれらしき何かは

「2つと同じものが無いはずの大自然に何か一つの「正解」のようなものをはめ込んでしまったから」

と言うものでした。

意志と自然の関係の基本構造が身体のリズムにあり、それの時間フラクタルな構造を僕らは現象の中に見ているということに気が付いたのは15歳くらいの時で、そこから約8年間研究を続けてきたのですがその「正解」に対する執着からはなかなか逃れることができませんでした。

ではその「正解」らしきものとはどういったものなのかと言うと
「物質的自然(Nature)」です。
僕は親のいうことより図鑑のいうことをよく聞く子どもで
幼稚園で聖書を破る代わりにNatureという一神教を信奉して
「すべては自然の思し召し」「人類よ、思い上がるな」とか言って好き放題していました。しかし本当の自然はどこまで逃げても追いかけてくるような、僕がどこまで創造的になったとしてもその僕を作り、立ちはだかってくるような究極的なまでにおそろしく圧倒的な化け物でした。僕はある時から今までのNatureとおさらばし、そのような化け物に身を任せることにしました。感覚を隅々まで言語化・演奏し、なるだけ乗り物に頼らずに体を使う、このようなことに気を付けた生活を続けると「肉体」と言う対象が消えました。つまり「意志」が「肉体」を操作するのではなく二つが一つになりました。そして努力の方向は「理性によって溝を埋める」から「感覚を受け止める余白を増やす」に変わりました。計画していたことではあるのですが、思いのほかうまくいっているのがうれしいです。それに加えて面白かったのが、体の動きが忙しくなる意識の方向が「追い付く」から「遅れる」に変わったこと。ダラダラして惰性に任せた方が速く、美しく走れます。感じたことを、どんな早いパッセージでも指が勝手に弾いてくれます。思考では追いつけないほどの情報量の時間のコマを記憶がつないでいきます。これは多分僕が頭でわかっていてもその通りに動きたくないという、グズグズするタイプの体をしているからのようです。そのためタフで丈夫なわりに対人的なレスポンスやルール通りの処理にはめっぽう疲れてしまうばかりか、作業を始めると簡単な言葉すら理解できなくなります。自己流でしか本当に何かを始めることが出来ないようです。

しかし、時は待ってはくれません。納得がいかなくてもお腹は勝手に空いてくるし、お金がないとご飯は買えないし、住むところもありません。悪気はなくても忘れ物ばかりだし、2万円落とすし、遅刻するし、物をもとの場所に戻さなくて何回も注意されるし、2年経っても松山駅と松山市駅を間違えます。それも、圧倒的な化け物のような自然の本性の一つです。

この間も、学生証が見当たらなくて10分くらい探しました。しかし、僕が意志でここに立っているこの2本の足の重みの転換を振り子時計だと捉えるとひとり落ち着いて鍵盤の上で即興の曲を作るようにスッと小さな光が上から差し込んできてズボンのポケットのところまでつないでくれました。
ほんの小さなきっかけと言うか、出来事の結びめと言うか、そんな感じの何かを感じました。
 それは、食べ物に関わることだったからかもしれません。学生証には学食を買うためのプリペイドカード機能がついているのでそれをなくせばご飯にありつけなくなるのです。端緒まで糸を手繰り寄せることで、再び産道を抜け出ることができました。


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