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好きなものを好きっていえる世界。
ここ数年、「幸せ」とか「自分らしさ」とか、今までは深く考えたことがなかったテーマについて考えることが多くなった気がする。
きっとそれは、いつも自分が生きている世界から外に一歩踏み出してみたからだと思う。大学一年生の時に初めて日本を飛び出してみたのもそうだし、それを機に怖いと思うことにも挑戦できるようになったちょっと成長した新たな自分が、今まで関わったことのなかったような人たちと積極的に関われるようになったからだと思う。
ある時、こんなことを伝えてくれた友達がいた。
そういえば、もとこって、毎日「幸せ〜」って言ってるけど、もうすでに幸せだなって思ってるのに、なんでもっと勉強したい!世界に行きたい!って思うの?その原動力が知りたい!
もとこ、最近変わったよね!
前まではお母さんみたいで、自分を犠牲にしてでも周りの人に笑顔でいてもらいたい感じがしてたけど、今は、自分のことも大事にした上で相手のことも大事にしている感じがする!
これを聞いて嬉しくもあったけど、それよりも驚いた自分がいた。自分でも気づいてなかった自分がいたから。
友達が伝えてくれたこの言葉もきっかけの一つとなって、自分が本当に大切にしてるものは何なのか、この先どんな人生を歩んでいきたいのか、どんな世界を創りたいのかが少し明確になった。
「好きなものを好きっていえる世界」
わたしが創りたい世界のカタチは、「好きなものを好きっていえる世界。」
食べ物、趣味、学んでみたいこと、恋愛、夢、......
小さなことから大きなことまで、書いたらキリがないけれど、自分も含めて、もっとみんなが、
「わたし、〇〇が好きなんだ。あなたは何が好きなの〜?」
「わたし、これ苦手なんだけど助けてもらえるかな?」
そんなことを気軽に伝え合えたら、もっと心地よく生きられる人が増えるんじゃないかな。
ひとりひとり、好きなことも苦手なことも違うんだから、その人の全部をひっくるめて受け止める心だけは持ち続けたいし、
社会の息苦しさに苦しんでる人がいたら、力になれるかは分からないけど、寄り添うことなら私にもできるかもしれないし、一緒に感情を分かち合って向き合い続けることは諦めたくない。
誰かの嫌いなものは誰かの心から好きなものかもしれない。だから、それをわざわざ「嫌い」なんて言わなくていいんじゃないのかな。
きっと、言葉のナイフは思ってるよりも鋭いし、深くまで刺さる。もう、そんな武器を振り回す世界は終わりにしたい。
ひとりひとりが持ってる色をもっと堂々と出せるような、そんなカラフルな空間が世界に溢れてほしい。
「綺麗ごと言ってんじゃねーよ」
ちょうど1年前くらいの出来事。自分の創りたい世界を発信していたとき、ある活動を一緒にしていたメンバーに突然言われた言葉。
そのとき、今まで味わったことのないような感覚に襲われた。その言葉が発せられた勢いがあまりにも強くて鋭かったからか、自分の感情に頭が追いつかなくて、上手く息ができなくて苦しかった。
怒りの感情なんかより、ただただショックだった。
その言葉自体もショックだったし、一つの関係が壊れたことがハッキリと分かったことも辛かった。
確かに、綺麗ごとかもしれない。でも、時には綺麗ごとで包まないとこの世界の全てが嫌になっちゃう気がしてた。
家族以外とケンカしたことがないから、こういう言葉のナイフで刺されたこともなくて、どうしたらいいのか分からなかった。
誰にも打ち明けたことはなかったけど、それから数ヶ月、自分の想いを発信することも、人と話すことも、少し怖かった。
誰を信じたらいいのか分からなくなって、ちょっと人間不信になってた。
それから少し時間が経って、なぜか怒りの感情が少し湧いてきて、そんな言葉気にしてたまるかーって思えるようになって、もう大丈夫だと思ったのに、自分の想いを伝えることが、好きなものを好きって言うことが怖いままで感情を押し殺して封じ込めてた時期もあった。
大学3年生のとき、その当時の環境が自分にとって生きづらくて逃げたくて、思い切って休学して海外に逃亡したことで、前よりも好きなものを好きって言えるようになってたのに、自分が変わりたい方向に少し踏み出せたと思ってたのに、一瞬の出来事、たった一つの言葉で刺された傷は癒えてなかったみたいで、好きなものを好きって言えなくなってたことに気づいた。
もう刺されてから1年も経つのに、今でもその傷がまだ少し残っているのが自分でも分かる。
今思い出しても苦しくなる時があるし、きっと、完全に消えることはない傷なんだと思う。でも、その傷が完治しなくてもいいやって思えるようになった。この傷があるからこそ、同じように苦しんでいる人がいたら寄り添うことができるのかもしれないし、
もういっそのこと、この傷を、まるごと愛してやろうと思った。
自分の考えを改めて問いただすきっかけをくれた。
そんな言葉を投げつけられたからって消えてしまうような、口先だけの想いじゃないって気付くことができた。
だから、今では「ありがとう」ってほんの少しだけ思える。
(フィリピンのネグロス島にある学校で子供たちと話してるときの写真。どうしても行きたくて現地の人に協力してもらって訪問して、子供たちの夢をインタビューしたときの写真。考え方が変わった2日間だった。みんなの口から想いが溢れて、それぞれの想いを幸せそうに話してくれたことが本当に嬉しかった。)
ちょっと極端かもしれない、また綺麗事って言われるかもしれない、だけど、不幸になるために生まれてきた人はいないと思ってるし、誰もが幸せになるべき存在だと思うし、どうせみんないつか死んでしまうんだから、もっともっと、好きなものを好きだと堂々と口にできて、みんながそれを認め合える、そんなあたたかい世界になったらいいな。
そのために、まずは自分から動いていかなきゃ。
人と向き合うこと、自分と向き合うことは難しいし覚悟がいる。全然簡単なことじゃないけど、だからこそ、価値があると思う。
今日は、どんな傷でも愛してもっと強くなる、進んでいくぞ〜と思えた日。
2021年6月7日、自分の中に湧き上がってきた想いを忘れないように、勇気を出してこのnoteに記してみた。自分の想い、溜まっている感情の一部を出せた再スタートの日!!
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