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屋比久の主ー松村宗棍の師匠ー

先日(2016年8月)、ドイツの空手研究家、アンドレアス・クヴァスト先生が翻訳した大正時代の琉球新報の記事を拝見した。

それは糸洲安恒の死去直後の「糸洲の武勇伝」(大正4年3月)という一連の記事である。この記事には糸洲先生以外の唐手家も紹介されている。その中に、松村宗棍が師事したという「屋比久の主(やびくのしゅ)」という人物に関する記述があった。面白かったので以下に引用する。

隠れたる大勇者がいた。それは首里の人で屋比久の主と云って、采地屋比久に島下りをしていた人である。松村翁よりもずっと遙かに先輩で古流の武術を伝えていたが、島下りするくらいの人であったから、いわゆる世を忍ぶ隠遁者で仙人じみた人であった。松村翁の如きも壮年時代まではもっぱら実地の経験ばかりして古流の唐手に通じなかったため屋比久の主を訪ねてようやく教えを受けた程である。

「糸洲武勇伝(2)」『琉球新報』大正4年3月16日。原文は旧字旧仮名遣い。

上の記事を解説すると、首里士族に屋比久という人がいて、その人は佐敷間切屋比久村(現・南城市佐敷屋比久)の領主、すなわち脇地頭であったため、「屋比久の主」と呼ばれていた。引退して、領地・屋比久村に引きこもり、そこで仙人のような悠々自適の生活を送っていたが、松村先生もその武人の名声を慕って、屋比久の主に古流の武術を師事したという。

従来、松村先生の師匠は唐手佐久川こと佐久川寛賀だったと様々な書籍に書かれてきたが、実はこれには明確な根拠がない。この説はもっぱら戦後流布したもので、本部朝基の著書にもそのような記述はないのである。

本部朝基は『私の唐手術』(1932)で、「一説によると」と伝聞であることを断った上で、松村先生は叔父の仇を報いるために中国に行って唐手を学んだ、と書いている。ほかには薩摩の伊集院氏より剣術を学んだとも記している。しかし、沖縄での武術の師匠に関する言及はない。

また、松濤筆・安里安恒談「沖縄の武技」(琉球新報、大正3年1月18日)には、松村先生は中国人のイワーに師事した、とあるが、やはり琉球での師匠については書いていない。つまり、唐手佐久川に師事した云々は当時の史料には言及がないのである。

それゆえ、この屋比久の主が松村先生の師匠である、という記事が、松村先生の沖縄での師匠について書かれた最も古い文献ということになる。

ところで、この屋比久の主は誰だったのであろうか。

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