取手は大筑が伝えたのか
昨年、沖縄のある方から「大筑傳琉球古武術と本部御殿手は似ているが関係があるのか」という問い合わせを受けた。それで、筆者は大筑傳琉球古武術宗家の伊佐海舟先生は以前上原清吉に師事していたこと、当時の詳しい話は首里の武芸館の比嘉清彦先生がご存知だと伝えたら、その後武芸館に取材に行かれたらしかった。
昭和30、40年代、上原先生と伊佐先生の師匠である喜納昌盛先生はともに沖縄古武道協会(のち全沖縄空手古武道連合会、会長比嘉清徳)に所属していて交流があり、伊佐先生も上原先生のところへ習いに来ていた。したがって、現在の大筑傳琉球古武術には本部御殿手の技法も含まれていると思われる。
また筆者が比嘉清彦先生に以前確認したところ、喜納先生自身は取手を教えていなかったそうである。
本部御殿手と上原先生が1990年代に全国的に取り上げられると、様々な反応があった。「取手なんて聞いたことがない。沖縄にそんな武術があるはずがない」という人。「本部朝勇はそもそも実在していない」、「本部朝勇は実在していたが武術は稽古していない、単なる三線弾きだ」という人。
もちろん取手は実在したし「糸洲十訓」にも書かれている。また本部朝勇が実在していないのならば、なぜ大正7(1918)年に沖縄県師範学校でショーチン(ソーチン)を演武したという新聞記事が存在するのであろうか?
そもそも本部朝勇の子孫は沖縄に何人もいて、昨年の本部御殿墓修復完了式典にも来られていた。
要するに、その人たちは自分が知らないものは存在しないと決めてかかる人たちであった。
また、2015年だったと思うが、『月刊空手道』に「本部朝勇は取手を金城大筑に習った」と書いてある記事が掲載された。著者はアメリカ在住の人物だったが、それまで取材を受けたことはなかった。出典も載っていなかったが、可能性としては新垣清先生の著書に書いてあった「義村御殿の義村朝明は捕手を本部朝勇と金城大筑に伝授した」という記述を誤読したのかもしれない。
金城大筑(1834-1916)は釵術の名人として知られているが、戦前の史料に取手をしていたという記述を筆者は読んだことがない。
また、義村朝明が取手に限らず、武術そのものを稽古していたと記述している戦前の史料も読んだことがない。
義村朝明は義村御殿の当主だったが、もとは向氏奥武殿内の奥武親方朝昇の五男で、義村御殿に養子に入った。母は本部按司朝救(1741-1814)の次男・松嶋親方朝常(松嶋殿内の祖)の娘・思戸で、したがって彼は本部家の血も引いていた。しかし、義村朝明が武術を稽古していたという戦前の記録はない。また、本部家にもそうした口碑は伝わっていない。
新垣先生の本には本部家と金城大筑は親戚関係にあったと書かれているが、そうした事実はないし、以前新垣先生から問い合わせがあったときもそのようにお答えした。大筑(警察官)というのはそもそも平民が就く仕事で、士族が就く仕事ではなかった。江戸の同心のような役職だったのであろう。当時は罪人を扱う仕事は不浄という意識があり、士族ではなく平民に担当させたのである。金城大筑はあだ名を「カニーウスメー」といったが、ウスメー(翁)は平民のおじいさんに対する敬称である。
新垣先生は又吉真豊先生から上記を聞いたという。ただ「大正時代に京都武徳殿で空手・古武道演武はあったのか」の記事でも述べたように、又吉先生の歴史解説には、近年海外の空手研究者の間で議論がある。
本部朝勇は昭和3(1928)年3月21日に亡くなったが、そのとき又吉先生(1921年12月27日生)は満で6歳である。直接面識があったとは思えないし、もし会っていても本部朝勇が誰から取手を習ったかを聞いたとは考えられない。
筆者が上原先生に初めて会ったのはちょうど6歳のときだったが、ただ武術の偉い先生というくらいの認識で、その師匠のことなど知らなかったし考えもしなかった。
もし又吉先生が誰かからその話を聞いたとしても、その人物が真実を語ったかはわからない。沖縄には様々な噂話がある。「本部朝基とボクサーとの試合を見ていた」という人物に会いに行ったら、実は知り合いから聞いた話だったと言い訳されてがっかりしたこともある。そもそもその知り合いが実在していたのかも不明である。したがって、口碑の取り扱いには慎重でなければならない。
出典:
「取手は大筑が伝えたか」(アメブロ、2016年3月18日)。note移行に際して改稿。