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北谷屋良公相君の問題

以前、「松村ローハイ」という記事を書いたことがある。そこで筆者は、全空連の第二指定形にも指定されている糸東流の松村ローハイは、実は戦後沖縄の松林流のローハイが関西の空手家によって本土に移入されたものではないかと述べた。なぜなら、松村ローハイは戦前の摩文仁賢和先生の著書には記載がないからである。

ほかにも、糸東流の泊バッサイや松風も、それぞれ松林流のパッサイやワンカンを移入したものではないかと、海外の松林流関係者から指摘がある。しかし、こうした指摘は状況証拠からその可能性を論じることはできても文献から証明することはむずかしい。しかし、唯一の例外がある。それが糸東流の北谷屋良公相君チャタンヤラ・クーサンクーである。

実は以前、『月刊空手道』にこの経緯が記事となって載っていたのである。

それによると、糸東会の諸岡祥紀もろおかよしのり氏の師匠の村田員敏氏(注1)が松林流の高弟から習い、さらにその後沖縄の長嶺将真先生の道場で再度確認したという。

松林流の高弟が誰なのか記事では不明であるが、大阪には松茂良流宗家の屋良朝意やらちょうい氏がいたし、屋良氏は戦後の一時期、沖縄で長嶺道場の師範を務めていて、大阪に転居してからはしばらく松林流の支部を名乗っていたので、屋良氏あたりかもしれない。

宗家(本部朝正)は屋良氏と面識があったし、宗家の幼なじみの普久原朝盛ふくはらちょうせい氏は屋良氏の弟子であった。筆者は小学生の頃、普久原道場にも通っていたので、この方たちはよく知っている。

前列左から、屋良朝意、普久原朝盛、宮城調常、本部朝正、大阪、昭和50年代。

あるいは屋良氏以外の別の松林流関係者だったかもしれない。ただ筆者は、村田員敏氏だけでなく、林輝男氏(林派糸東流)ら複数の糸東流の人たちが沖縄に行って長嶺道場で学んでいるので、北谷屋良公相君が本土に移入されたルートは複数あったのではないかと考えている。

たとえば、故・井上慶身氏(井上派糸東流慶身会)は、林氏の弟子であった。井上氏の門下には、宇佐美里香氏等、北谷屋良公相君を得意とする多数の選手がいる。

上で紹介した記事には、もう一つ面白いことが書いてある。それは、本土の北谷屋良公相君は競技用に改変されたものであると書かれている点である。

北谷屋良公相君は、横山久美選手の活躍によって1990年代に、突如脚光を浴びるようになった。この横山選手も井上氏の弟子だったのであるが、記事では、以下のように書かれているのである。

しかしながら横山のチャタンヤラは競技用のために原形からかなり改良が加えられている。その改良形で世界大会の優勝をおさめ、そのビデオなどが広く出回ったおかげで、それ以降、大会などで演じられるチャタンヤラはすべてが横山のコピーであるといってもいいくらいである。

横山以前にもチャタンヤラを得意形としていた選手もいたが、飽くまでマイノリティーであり、世界での脚光を浴びることもなかった。大会用に改良を加えるということは禁止されているが、横山の場合、前例がなかったせいもあり、ルールの間隙をついて一気に脚光を浴びた。そして今ではそのチャタンヤラが主流となり……(注2)

本土の型が競技用に改変されているとはよく言われるが、その経緯がこのように記事で書かれることは珍しい。それも、戦前伝わった型ではなく、戦後沖縄から伝わった比較的新しい型である。

では、原形の北谷屋良公相君はどのようなものだったのであろうか。以下の動画は1960年代の松林流の北谷屋良公相君である。

本土の北谷屋良公相君と見比べると、たしかに挙動はほぼ同一であるが、趣はずいぶんと異なっている。

ちなみに、全空連の北谷屋良公相君は、糸東流の型として登録されている。それゆえ、松林流の北谷屋良公相君では試合に出場できないか、出場できたとしても勝つことは難しいと思われる。

残念ながら、沖縄諸流派の型は全空連では排除されている。それゆえ、試合に勝ちたければ、あくまで本土四大流派の型を演武しなければならない。

WKF(世界空手道連盟)では、最近ルールの改正があったようであるが、それでも沖縄の型で出場したり、結果を残せるようになるのはずっと将来のことではないであろうか。

ちなみに、北谷屋良公相君はもとは喜屋武朝徳先生の型で、松林流以外の喜屋武系の諸流派でも受け継がれている。

注1 記事には村田員敏と村田員数の両方の表記がなされているが、インターネットで検索したところ、村田員敏の検索結果が出たのでこちらに統一しておく。
注2 『月刊空手道』1999年3月号、福昌堂、39頁。

参考文献:
『月刊空手道』1999年3月号、福昌堂。

出典:
「北谷屋良公相君の問題」(アメブロ、2017年7月1日)。


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