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本部御殿手の取手(1)ー座技と立技ー

先日の記事で述べたように、大東流合気柔術の武田惣角は明治12年(1879)、沖縄へ渡って「沖縄手おきなわて」を修業したとされる。年譜で確認するかぎり、武田氏が会津以外の地で素手体術を学んだ地は沖縄だけである。

武田氏が沖縄で取手とりて(トゥイティー)を学んだ可能性はある。しかし、たとえば本部御殿手の取手と大東流やその派生武道である合気道や八光流とを比較すると、共通する点もあるが相違点も多いのである。

大きな相違点の一つに座技すわりわざの有無がある。座技というのは受(攻撃側)と取(防御側)が互いに正座の状態で行う技法のことである。座取ざとり居捕いどり等ともいう。

大東流やその派生武道では座技は基本技として位置づけられている。たとえば、武田惣角の子息の武田時宗宗家は以下のように述べている(注)。

───いつ頃から護身術として大東流が使われているのでしょうか。
武田 これは徳川幕府の時代からです、いわゆる半座半立ですね。ひとつの大東流柔術の技の中に特殊な合気が入っているのですね。殿中でいろいろ研究されてできたのが「御式内」と言います。御殿術ですね。御殿、江戸城の大判部屋(格式のある人用の部屋)を通過する時は刀は全部取り上げられた。名前に介とか守のつく一段偉い人たち(○○之守)などの脇差しは別として、他の者は皆刀を取り上げられた。ですから、大東流はその時に使われた技なのです。その場合も将軍家の前では膝行だけだったのですよ。ですから大東流では膝行を盛んにやる。大東流特有のものなのです。

上記によると、大東流は江戸城内で使うために編み出された「御式内おしきうち」と呼ばれる護身術である。殿中では、将軍の前に進むとき、立って歩くことは許されず膝行しっこうを用いなければならなかった。したがって、大東流では座技とともに膝行も盛んにやる、ということである。

近年、武田惣角の戸籍の控えが発見されるなど研究に進展があり、上記の説明もそのまま真実と受け取るのは困難ではある。しかし、さしあたり、そのことは脇におくとして、ここで重要なのは、大東流ではその本質が「御殿術」とか「殿中武術」として理解されており、とりわけ貴人のいる室内で使う武術であったため、座技が基本となっているということである。時宗宗家は続けて言う。

───他の昔の武術にはあまり座り技はありませんね。
武田 ないです。この膝行が基本なんです。半身半立というのもそうです。座っていて急に相手が攻撃してきた場合に対するものです。五方に投げるのです。前後左右、最後に中心と。五方投という言葉を使いますね。あれもみんな居捕でやったことですから、座って、立ってという技は大東流にしかないのです。座った人間を抑えるというのは古武道界の他流にはありますが、座っていて立って相手を五方に投げるというのは大東流しかないのです。

半身半立はんみはんだち」というのは、受(攻撃側)が立って攻めてくるのを、取(防御側)は座ったままで対処する技のことである。時宗宗家によると、半身半立技は大東流にしかないという。

下の動画は昭和10年(1935)、植芝盛平がまだ合気道を名乗る以前に撮影された半身半立技である。

(0:44頃から)

このように、大東流では座技や半身半立技がその技法群で大きな位置を占めている。また、下の動画は八光流の初段座技のものである。

八光流でも、座技は重視されている。動画は、八光流から独立した八光伝心流の技だが、技法はほぼ同じである。八光捕、顔当、膝固、手鏡、合気投、腕押捕、胸押捕、打込捕が披露されている。

武田惣角が最初に発行した初伝目録である『大東流柔術秘伝目録(118箇条)』のうち、座技(座取)は22箇条、半身半立(半座半立)技は12箇条ある。初伝目録のうち、30箇条は「外手」と称して空白になっているので、実質88箇条のうち、座技、半身半立技が約三分の一を占めている。

なお初伝目録の内容は戦後時宗宗家によって改められたので、上の話は武田惣角が発行した目録の内容のことである。

八光流でも各段ごとに座技、半立技、立技と分かれているが、やはり座技、半立技は大きな位置を占めている。

一方、本部御殿手の取手には、座技や半身半立技は皆無なのである。

筆者が大東流やその派生武道の技を見ると、基本的に「室内武芸」という印象を受ける。武田惣角の伝記を読むと、大東流の教授は基本的に旅館や地方の名士の屋敷の部屋で行われた。庭にむしろを敷いて、外で稽古したという記述を筆者は読んだことがない。

対して、本部御殿手では、昔は御殿の庭や墓の墓庭、海辺の砂浜でもっぱら稽古が行われた。本部朝勇の長男の朝明氏によると、雨の日は御殿の座敷で稽古したことはあったそうだが、上原清吉が入門した頃は稽古はすべて屋外であった。

本部御殿手の取手、1963年、万座毛。

上原先生は上の写真にあるように、戦後も屋外稽古を重視していた。実際、本部御殿手では、受(突き手)は飛び込みながら突きや蹴りを放つので、屋外での稽古が適している。

武田惣角について、面白い逸話が残されている。弟子の佐藤啓輔が山形県瀬見での講習会の様子を以下のように語っている。

惣角先生は、まずまわりに誰かこっそり見ている者がいないかどうかを確かめてから稽古を始めました。それぐらい厳しかった。人には絶対に見せませんでした。

『武田惣角と大東流合気柔術』98頁。

また、あるとき子供二人が稽古中の部屋を覗くと、武田氏が血相を変えて出てきて「殺してやる!」と叫びながら二人を追いかけ回したという(注2)。

本部御殿手の稽古も秘密であったが、それはまだ日が昇らない早朝など人気ひとけの少ない時間帯で行ったからである。

武田惣角が屋外稽古を避けたのは単に秘密を見られたくなかったためであろうか。しかし、会津藩で稽古されていた柔術では、下の図にあるように、時々は甲冑を着て屋外でも稽古していた。

柔術の図。沢田名垂「日新館教授之図」19世紀、福島県立博物館より。

大東流には、「傘捕」など、屋外を前提にした技もあるが、総じて室内で戦うことを前提にした技法がその多くを占めている。投げ技にしても、武田惣角はあまり大きくは投げず足元に転がす程度であったという。

大東流には組討的要素がないと以前から指摘されているが、それは単に甲冑や短刀を用いた稽古がないだけでなく、座技や膝行が大きな位置を占めているためでもあろう。

ちなみに、本部御殿手には素手の取手には座技はないが、「居合取り」、方言で居取イドゥイと呼ばれる刀を用いた取手には座技はある。

居合取り

本部御殿手の居合取りと類似の技法は古流柔術にも「柄取り」があるが、ただ取が自らの刀のさやを用いて受を制するというのは珍しい。

武田惣角が発行した『大東流柔術秘伝目録』にも「帯セシ刀ノ鞘ヲ捕ラルル事」という「刀捕」の立技が一つ(受・取で合計二箇条)ある。しかし、これは敵の刀を取りにいくのではなく、自らの刀を掴みに来た敵を投げる技である。本部御殿手の居合取りとは技法の性質が異なり、また数も少ない。八光流に同様の技法があるかは筆者は知らない。

まとめると、大東流やその派生武道では座技が大きな位置を占めているが、本部御殿手の取手には座技は皆無である。また、本部御殿手では居合取りで座技を用いるが、大東流の「刀捕」は立技で技法の性質も異なる。

注 どう出版編集部『改訂版 武田惣角と大東流合気柔術』どう出版、2002年、253、254頁。
注2 上掲書、98頁。


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