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大東流の起源と沖縄手

これまでの考察をまとめてみよう。近年、武田惣角の戸籍(控え)が発見され、そこには農民(平民)と記されてあった。したがって大東流の伝書や「英名録」に記されていた「旧会津藩士」、「武田惣角 源正義」といった身分や源姓名、また源義光(新羅三郎)を祖とする甲斐源氏の「会津武田家」や大東流合気柔術の系図の真実性の証明が困難になった。

また、武田惣角が明治31(1898)年、旧会津藩家老、西郷頼母から大東流を伝授されたという説も、西郷の遺稿からは確認できなかった。さらに、明治31年以前に、武田氏が現在の大東流とは技法的特徴の異なる柔術をすでに教授していたという初期弟子の証言があることも紹介した。

九州・沖縄の武者修行から戻った明治14(1881)年から西郷頼母に会う明治31年までの武田惣角の足跡はよくわかっておらず「空白期間」とされる。しかし、その間にすでに武田氏が柔術を教授していたのならば、西郷とは別の師匠に柔術を習っていたことになる。もしそうならば、それは誰でどの柔術流派であろうか。

大東流の技法には、「甲冑組討」の特徴が乏しく、むしろ「素肌武術」の特徴が色濃いという指摘がこれまでもなされてきた。実際、大東流では甲冑を着用しての稽古は皆無である。一方、会津藩で稽古されていた柔術流派では時々は甲冑をつけて稽古し、また許位に進もうとする者は学校奉行(藩校の校長)の閲見では、必ず甲冑を着なければならなかった。

柔術の図。沢田名垂「日新館教授之図」19世紀、福島県立博物館より。

したがって、もし武田惣角が会津藩で稽古されていた柔術を学んでいたのならば、――甲冑組討とは異なる――大東流の技法的特徴や稽古方法の説明がつかない。

では、武田氏は諸国を武者修行していた時、会津以外の地で柔術を学んだのであろうか。その可能性は否定できないが、大東流の特徴、すなわち「形名がない」、「発声がない」、「構えがない」といった特徴は、そもそも日本柔術の一般的特徴とはかけ離れていた。

むしろ、こうした特徴は沖縄の空手や取手の特徴と一致するのである。そして、年譜で確認する限り、武田氏が素手体術を学んだとされるのは、沖縄において「沖縄手」を学んだという事例のみである。

技法的特徴を見ると、今日の大東流の突き方(正拳突き)や拳の握り方には空手との類似性を見ることができる。

出典:「大東流合気柔術 総伝之技」(YouTube)より。

上の画像にあるように、受(攻撃側)が左手を下段払いに構え、右手を引手の位置に構え、手のひらを上側から下側へ内旋させながら突く突き方は空手の突き方である。また、拳の握り方も柔術では親指をほかの指で包むのが一般的だが、大東流では空手風に親指を外に出して握る。

また、武田氏は岩手県で当身に定評のある柳生心眼流の師範、田野崎幸右ェ門を倒したが、これは若き日の沖縄での「拳法研究の賜」であったという。

しかし、こうした逸話は戦後明らかにされた口碑であること、また武田氏が沖縄に渡ったとされる明治12(1879)年は廃藩置県の年に当たり、渡航は容易ではなかったはずだということ、仮に渡航していたとしても実際の時期はもう少し後ではないかという意見を述べた。また、空手風の技法も武田惣角が教授したものか、弟子や孫弟子が取り入れたものかは慎重に判断しなければならないとも述べた。

そもそも沖縄手(おきなわて、ウチナーディー)という言葉は明治前半に使われていた言葉で、松村宗棍の手がそう呼ばれていたという義村朝義の証言がある。その際、沖縄手は中国由来の唐手(とうで、トーディ―)との対比で使われていた。また船越義珍によると、沖縄手は沖縄固有の武術の意味で使われていた。いわゆる手(ティー)と呼ばれていた武術である。

彼らの定義はそれ自体慎重に検討しなければならないが、もし武田惣角が「沖縄手」という言葉を使っていたのなら、たしかに彼は明治10年代に沖縄へ渡っていた可能性がある。では、大東流の起源は沖縄の取手(とりて、トゥイティー)なのであろうか。

確かに本部御殿手の取手と大東流には技法的な共通点がある。しかし、世間一般の人が漠然と思うほど似ているわけではない。むしろ、相違点も多いのである。次回以降では、本部御殿手の取手の特徴を、大東流やその他の日本柔術と比較しながら解説していきたい。


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