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1950年代の大阪の空手指導者

たしか2001年だったと思う。宗家(本部朝正)が初めて海外の空手セミナーに招待された際、念のため戦前の本部朝基の戸籍謄本のコピーを持参するよう勧めた。というのも、海外の空手家の中には、宗家が本部朝基の息子だと信じない人もいるだろうと考えたからである。当時、海外では本部朝基の子どもたちは皆戦争で亡くなったと信じられているという噂も聞いていた。

日本国内では、1994年に、クエスト社から本部流のビデオが発売されていたから、空手愛好家の間では本部流の存在は知られていたと思う。しかし、こうした情報は海外には十分に届いていなかった。

さて、小西康裕著『空手上達法』(河津書店、1956)に「現在活躍中の空手指導者」という一節がある。そこには、宗家も以下のように紹介されている。

拳豪、故本部朝基先生の令息、本部朝正先生は大阪府貝塚市で尊父の遺業を継ぎ、指導育成に精進されている。

187頁。
小西康裕著『空手上達法』

この本はいま(2023年)から67年前のものだが、それ以前、宗家は昭和23年(1948)頃から空手を教えはじめている。それゆえ、空手の指導歴はすでに70年以上になる。

さて、この本には、当時の大阪の他の空手指導者についても記載されている。試みに彼らを以下に列挙してみよう。

友寄隆正
上島三之助
河野稔
摩文仁賢栄
崎尾健
関白龍
本部朝正
崎浜盛次郎
糸数
西村真
城田大秀
国場幸盛
渡辺勝
沢山勝

沢山勝氏は、日本拳法の開祖、澤山宗海氏の本名である。日本拳法と空手は、現在は別々の武道であるが、沢山氏は空手を摩文仁賢和に師事したので、この本では空手指導者として挙げられているわけである。

上記リストを見ると、全体的に糸東流の人が多いように思う。上島三之助氏は本部朝基にも師事している。彼は空真流という流派を設立した。空真流は、現在はインドネシアで盛んなようである。

関白龍氏も摩文仁先生の弟子で、のちに大和流を興された。摩文仁先生と共著で『来留破の研究』という本も出版している。現在は入手困難な稀覯本である。

大阪の空手指導者は全部で14名であるが、もちろん小西先生が知っている範囲の数字である。他にも空手指導者がいたかもしれない。それでも、14名という数字は、当時としては多いように思う。この本に記載の東京の空手指導者の数も同じか少し上回る程度である。人口比で考えると、当時の大阪がいかに空手が盛んであったかがわかる。

本土の空手史研究は従来東京を中心としたもので、大阪の空手史はあまり顧みられてこなかった。しかし、大阪には戦前から多くの沖縄出身者が移住しており、東京はもちろん沖縄にも残っていないような型が伝えられている例もある。それゆえ大阪の空手史研究も重要である。

出典:
「1950年代の大阪の空手指導者」(アメブロ、2019年8月10日)。


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