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本部朝基の当破(アテハ)

当破(アテハ、方音でアティファ)は、突きの威力とかパンチ力を意味する沖縄方言である。漢字で当破と表記する。宗家(本部朝正)によると、父・本部朝基は、たとえば「どんなに型ができても、当破がなければだめだよ」という言い方をしていたらしい。

当破の漢字が正しいかどうかだが、宗家によるとアテハの意味は「突き破る」ということなので、当破で間違っていないと考える。というのも、首里では、「殴る」という言葉を上品に「アティユン(当てる)」と言ったからである。これに対して、那覇では「クルスン(殺す)」と言った。物騒な言い方だが、那覇は、江戸で言えば浅草のようなところ、下町であるから威勢のいい言い方が好まれたのであろう。これに対して、首里は国王のお膝元であるから、上品な言い方が好まれた。

したがって、当破はもともとは首里の人たちが使った言葉だったのであろう。那覇の人たちが、殺破(クルスンファ?)と言ったかは知らないが。そういえば、那覇手の剛柔流にはクルルンファという型がある。

さて、当破に対して、今日さまざな誤解がある。多くの人は、当破を正拳突きの威力、とりわけ引き手からの逆突きの威力として解釈している。しかし、本部朝基が学び実践していた古流空手では、正拳突きだけでなく、裏打ち(裏拳)、コーサー(一本拳)、猿臂(肘打ち)、手刀、貫手など多彩な突きがあり、正拳突きも引き手からだけでなく、夫婦手の前手からの前手突き(刻み突き)もあった。

そして、本部朝基の当破の真骨頂は、引き手から繰り出す正拳突きではなく、対象すれすれの位置から繰り出すショートパンチにあった。それを示すエピソードが、中田瑞彦『本部朝基先生・語録』(1978)に書かれているので以下に紹介する。

“中田よ、いいところに来た。一寸ぐらい拳を離したところから、割ってみなされや。割れたら、腰の抜けるほど泡盛をご馳走するよ”とあるとき、私が本郷餌差町に先生をお訪ねすると、先生の座敷(道場兼用)の縁側の軒先からぶら下がっている札を私に示した。よく見ると、幅2尺(約60センチ)、長さ3尺(約90センチ)、厚さ2寸余(約6センチ余)の長方形の松板の上端から2寸ほど下がった中央のところに錐穴が開けられ、その穴に丈夫な紐が通して、軒のタル木からぶら下がっていた。とてもとは思ったが、言われた通り、縁側に立ち、左拳を間近に伴った右拳で、松板から一寸ほどのところに位置させ、一念をこめて突いたが、割れるどころか、ガツーンと音を立てて板は跳ね返り、得たものは拳の苦痛だけだった。

忘れたが、居合わせた誰かお弟子さんだったのだろう、その人も続いて、やってみたが、何回やっても、板が音を立てて跳ね返ること、私と同様だった。

“さあ、よく見てなされや”そこで本部先生は板の前に立ち、右拳を板から一寸にも足らない至近距離に一度静止させたが、次の瞬間“フィッ”というような含み気合いと共に沈むと、いつ拳が当たったのか、板はちょうど紐穴から縦の線でズーンと割れ、両片と化して軒下の地面に落ちた。

(註)本部先生は平生、余り板や瓦などを割ることに興味がなかった。それは演武会などの客寄せのショーぐらいに考えていられたらしいが、このとき私がはじめて見た先生の板割は、ショーどころかまさに本部流拳法の真髄だった。このようにブラブラと吊るされた松の厚板をスレスレのところから真っ二つに割るということは、本当の当身の力で、おそらく何人(なにびと)にも真似は出来ないであろう。私はその時、本部先生の双手連動、足腰のバネ活用による極端なショートパンチの威力を目の当たりに見せられ、その「当て」を構成する諸々の要素を一人の天才的武術家が実戦裡に創成した恐ろしいものと知ったのである。

上のエピソードはおそらく本部朝基が60を過ぎてからのものであろう。その年齢でもこれだけの突きの威力があったわけである。ちなみに、宗家によると中田氏が言うように本部朝基は瓦割りにも否定的であった。いわく、「瓦は屋根にくものであって、割るものではない」と。やはり昔の人であるから、力を誇示するために、ものを粗末に扱うことに否定的であったのであろう。

当破を養うのは巻き藁突きである。本部朝基の巻き藁突きも、YouTubeなどでよく見かける現代の巻き藁突きとは趣を異にしている。空手の多くの技法は近代になって失われたりその特徴が大きく変質してしまった。

出典:
「当破」(アメブロ、2017年12月10日)。


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