見出し画像

糸洲安恒の弟子たちはどれくらい師事していたのか

糸洲安恒は空手史においてはビッグネームである。それゆえ、糸洲先生の弟子の方々が興した流派では、開祖が糸洲の弟子であることを誇りに思い、また流派の歴史を説明する際にはその事実を特に強調する傾向にある。

ただ、特に海外の書籍などでは、自らの流派の開祖こそ糸洲の一番弟子だったとか、後継者だったとか書いてあるものもある。管見では、糸洲先生が弟子の優劣を述べたり、誰かを後継者に指名した事実はない。

一般に、日本武道では、段位や伝書の高低を通じてある程度、弟子の序列を推し量ることはできる。しかし、糸洲先生が段位状や伝書を発行したという事実は確認できない。そもそもあの時代の沖縄では、免状、伝書の類の発行はまだなかった。空手の段位状がはじめて発行されたのは船越義珍が大正末期に東京に出てきてからである。次いで、本部朝基がやはり昭和初期に段位状を発行している。

しかし、弟子が糸洲先生にどれくらいの期間師事したかという事実は、その人が糸洲先生からどの程度深く教えを受けたかを推し量る上で手がかりとなりうる。たとえば、1年間師事した人と5年間師事した人とでは、同じ弟子といってもやはり後者のほうがより深く学びえたであろう。

とはいえ、同じ1年でも週1回教えを受けた人と、毎日教えを受けた人とでは、単純に比較すると7倍の開きがある。もちろん1日の練習時間が同じと仮定すればの話であるが。

沖縄拳法の中村茂によると、糸洲先生は沖縄県立中学校に週1回教えに来ていたという。すると、沖縄県師範学校の場合もやはり週1、2回程度だったのではないであろうか。体操(今日の体育)の授業の中で空手(当時は唐手)を教えるのであるから、その程度の頻度だったのではないかと思われる。

もちろん、一部の生徒は石嶺にある糸洲先生の自宅(といっても伊江御殿別邸兼墓の御番うばん小屋だが)に放課後や休日に訪問して教えを受けたようであるから、一概に言えない点は留意しなければならない。

さて、糸洲先生の弟子たちはそれぞれ何年くらい師事していたのであろうか。もちろん公式には「お亡くなりになるまで師事しました」と各流派主張するであろうが、実際に集中して師事していた期間の話である。実はこれについて知花朝信の証言が村上勝美『空手道と琉球古武道』(1973)で紹介されている。

 屋部憲通先生は、糸洲先生の高弟で、もと軍人、日清戦争のときは軍曹として従軍されました。また花城長茂先生も、屋部先生と同じく、日清戦争に従軍され、やはり軍曹でした。のちに屋部先生は沖縄師範学校の空手助手として、また花城先生はもと首里一中、今の首里高校の空手助手として、そして糸洲先生は両校の師範として、両校で空手を教えられました。そのとき、糸洲先生は80歳以上の高齢でしたので、型の指導は屋部先生と花城先生が行われ、糸洲先生は、ただ後ろから歩かれて、生徒の手をとってなおされるくらいでした。
 屋部先生、花城先生は、からだが大きく、力のたいへん強い方でした。屋部先生は私(知花先生)より20歳ぐらい上で、花城先生は私(知花先生)より18歳年上でした。
 山川朝棟さんは私(知花先生)より7つ年上でした。徳田安文さんは1つ年上で、城間真繁さん、摩文仁賢和さんは5つぐらい下でした。この方たちは、糸洲先生から4~5年ぐらい指導を受けられました。

25頁。

上記の「この方たち」の範囲が1段落目の屋部、花城先生を含むのか、3段落目の山川朝棟以降からなのかいまひとつ明瞭ではないが、筆者は後者と判断した。

なお、上記は糸洲先生の主要弟子のすべてを含むわけではない。あくまで村上先生との対話の中で知花先生が思いつくまま語ったことを村上先生が書き留めたということであろう。長嶺将真との対談では、知花先生は糸洲先生の弟子として本部朝勇、屋部憲通、花城長茂、本部朝基、喜屋武朝徳、山川朝棟、屋比久孟伝、喜納朝献、知念ンター、摩文仁賢和、城間真繁、徳田安文の方たちの名前を挙げている(1)。

昔は型一つ3年と言われていたから、4~5年の期間では型はいくつ習得できたのであろうか。3年が誇張だとしても、現在糸洲の型と言われているものの中には、実際には糸洲先生が教えていない型も含まれていると思われる。また一人が糸洲先生から全伝を受け継いだわけではなく、糸洲先生の没後にほかの弟子から教えてもらった、あるいは互いに教え合ったという事例もあったにちがいない。

昔は一人の弟子にすべての型を教えるのではなく、それぞれの個性に応じて少数の型を選んで教える仕方が一般的だったからである。

ところで、本部朝勇、朝基は糸洲先生を家庭教師(ヤカー)として本部御殿に招聘して特別に個人教授を受けたのだが、どれくらい習っていたのであろうか。

本部朝基によると、糸洲先生は「毎日のように」本部御殿にお見えになられ(2)、7~8年間教わったという(3)。宗家(本部朝正)によると、糸洲先生は廃藩置県後に生活に困られ、本部御殿が援助の手を差し伸べたということである。したがって、ほかの弟子の方々と比較しても朝勇・朝基は十分に学んだはずだが、なぜか糸洲先生の弟子の系統図に二人の名前がしばしば省かれているのは解せないことである。空手界における「政治」というのはつねに厄介である。

さて、知花先生の証言の中で屋部先生を「糸洲先生の高弟」と表現している箇所があった。糸洲先生の門下の間には序列はなかったと述べたが、そうは言っても屋部先生が糸洲先生の事実上の「一番弟子」だったと見なすのは妥当ではあるまいか。それにしても、知花先生のこのような発言は謙虚な人柄が想起されて立派なことである。


脚注
1 「古来の”手”と『唐手』が結合:喜屋武の型と本部の武力」『沖縄タイムス』1957年9月24日。
2  本部朝基『私の唐手術』東京唐手普及会、1932年、21頁。
3 本部朝基「空手一夕譚」『空手研究』興武館、1934年、20頁。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?