本部朝基の空手は自己流?
昔から本部朝基に対する誹謗中傷として、以下のようなものがある。
曰く、本部は若い頃から掛け試しに明け暮れていたので、その悪評がたたって、正式に空手(唐手)を教えてくれる人は誰もいなかった。ただ泊の松茂良興作だけは、本部の懇願と熱意に動かされてナイハンチとパッサイを教えてくれた。さらに、本部が組手(変手)も教えてほしいと頼むと、松茂良は「本部の空手はやはり喧嘩に用いるためのものだったのか」と警戒して教えてくれなかった云々。
まず疑問なのが、本部朝基が空手を習い始めたのは数えで12歳、満で約11歳からだが、その頃から掛け試しをしていたのであろうか。普通は19、20歳くらいからするのではないか。かりに多少腕白な少年だったとしても、「私が面倒を見て、立派な大人になるように教育しましょう」と言う空手家はいくらでもいたはずである。ましてや御殿(王族)の出身である。拒める人がどれくらいいたであろうか。
『私の唐手術』(1932)によると、本部朝基は数えで12歳のときから糸洲安恒をヤカー(家庭教師)として本部御殿に招聘して兄・朝勇とともに空手を正式に学んだ。ほかにも松村宗棍、佐久間(佐久真)親雲上に学び、また松茂良興作からは特に組手を教わった。
しかし、批判する人たちは「それは自己証言であって信用できない」と主張するかもしれない。しかし、知花朝信が長嶺将真との対談で以下のように語っている(注1)。
つまり、第三者証言として、知花先生は本部朝基が糸洲の弟子だったと証言しているわけである。
また、琉球新報主催の本部朝基の座談会の記事で、金武良章が、父・金武良仁から聞いた話として以下のように述べている。
上記によると、松茂良先生は本部朝基に「入り組」と呼ばれる古流の組手を教え、さらに本部の組手の才能を褒めていたという。このように昔の空手家がその弟子の才能を褒めた逸話が第三者証言として伝わる例は稀である。
さて、そもそも本部朝基の組手を自己流だと批判する人たちは伝統的で正統な組手を知っていたのであろうか? たとえば、屋部憲通は糸洲先生の筆頭弟子の一人であり、さらに沖縄県師範学校で空手を教授した、おそらく沖縄でもっとも正統的な空手家と見なされる人物であるが、彼は三木二三郎、高田瑞穂『拳法概説』(1930)でのインタビューで次のように語っている。
上記によると、屋部先生は松村先生から組手を教わり、長じては本部朝基と一緒に長年組手の研究していた。つまり彼らの組手は、松村、佐久間、松茂良の組手を総合して、さらに二人で研究深化させた、沖縄でもっとも伝統的で正統な組手なのである。
「沖縄組手の衰退」の記事で述べたように、1970年代頃まで沖縄の空手家の多くは組手を稽古していなかった。つまり、伝統的な組手を習ったことがなく、それがどういうものか知らない人たちが本部朝基を批判していた。いわば、一度も水の中に入ったことがない人が、自由に泳ぎ回っている人を批判しているようなものであった。
さて、「松茂良のナイハンチ?」で述べたように、本部朝基の空手は自己流だという説は、長嶺先生の英訳本から海外にも広まっている。長嶺先生は本部朝基の座談会にも出席し、また知花先生との対談の相手でもあった。なぜ自分が直接聞いた話とあべこべの話を書いたのであろうか。年をとって記憶が薄れたのか、それとも世間の噂話の印象が強くそちらを信じてしまったのか。
あるいは自己流で空手を大成させたというアウトサイダーのイメージにある種のロマンを感じて、好ましいと思ったのか。たしかに空手家の中には、本部朝基のそういうイメージに憧れる人達もいる。しかし、真相はそれとは違っていたのである。
注1 「対談 知花朝信、長嶺将真(上)」『沖縄タイムス』1957年9月24日。
注2 「武士・本部朝基翁に「実戦談」を聴く!」『琉球新報』1936年、11月10日。
注3 三木二三郎、高田瑞穂『拳法概説』東京帝国大学唐手研究会、1930年、183、184頁。
出典:
「本部朝基の空手は自己流?」(アメブロ、2021年8月15日)。
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