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「亀の甲」踊りと古流本部パッサイ

2017年11月3日の「各地の民俗芸能披露/県文化協会 舞踊、棒術に会場沸く」という琉球新報の記事に以下の文章がある。

第5回「特選 沖縄の伝統芸能」(県、県文化協会主催)がこのほど、浦添市の国立劇場おきなわで開催された。今帰仁村仲尾次の舞踊「亀の甲」、嘉手納町屋良のあやぐ、宜野湾市我如古のスンサーミー、八重瀬町小城の棒術、伊江村西江前の舞踊が上演された。各地域の特色あふれる民俗芸能で楽しませた。
(中略)
仲尾次の舞踊「亀の甲」は仲里兄弟という人が首里の本部御殿で奉公した際に唐手を習い、豊年祭で唐手踊をしたのが継承されているという。

上記によると、今帰仁なきじん仲尾次なかおし地区に、かめこう(方言で、かーみぬくー)という唐手からて踊りが伝承されていて、2017年に国立劇場おきなわで披露された。

以前小西康裕こにしやすひろが慶応大学在学時代、同じ剣道部の沖縄県出身者、新垣恒茂あらかきこうもが踊る「クーシャンクー踊り」を見た話を紹介したことがあるが、唐手踊りがまだ現存しているとは知らなかった。しかも、それが本部御殿から伝わった唐手を踊りにしたものだという。

また、同公演のプログラムには以下の文章が記載されている。

亀の甲・豊年祭(亀の甲保存会、仲尾次区)
(中略)
いつごろから踊られているかははっきりしないのですが、仲里兄弟(屋号カナー屋)が首里の本部御殿でウフヤカーとして奉公した時に、唐手を習い、仲尾次の豊年祭の時に亀の甲節に合わせて唐手踊りをしたものが、伝わったものです(注)。

「第5回 特選 沖縄の伝統芸能」のポスター。

ヤカー」とは守り役のことである。役割によって、養育係、家庭教師、遊び相手などを意味する。養育係や教師のヤカーはウフヤカー(大ヤカー)、同じ年頃の遊び相手はヤカーグヮー(ヤカー小)と呼ばれた。それゆえ、仲里兄弟は本部御殿の子弟の養育係だったのであろう。

琉球王国時代、地方役人の子弟や特に優秀な若者が首里の御殿で数年間、奉公をしながら学問を習う制度があった。これを御殿奉公うどぅんぼうこうと呼ぶ。したがって、仲里兄弟は本部御殿で御殿奉公をしていたのであろう。

上記の記事では、いつ頃から踊られているかわからないとあるが、御殿奉公は廃藩置県が行われた明治12(1879)年に公式には終わっているから、仲里兄弟が本部御殿で唐手を学んだのは基本的にはそれ以前ということになる。

1879年の時点で、本部朝勇(1865年生)は満で14歳、本部朝基(1870年生)は9歳である。唐手を教えるには幼すぎるから、彼らから仲里兄弟が学んだ可能性はないであろう。おそらくその父の本部朝真もとぶちょうしんか祖父の本部按司朝章もとぶあじちょうしょう、あるいはそれ以前の可能性も考えられる。

さて、YouTubeに上記公演の際の「亀の甲」がアップロードされている。

動画の14分頃から始まる唐手踊りがそれで、見たところ「パッサイ」の型である。音曲に合わせて、2回演武が繰り返されている。

1879年以前のパッサイだとしたら、現存する最古のパッサイではないであろうか。もちろん一部の挙動で脱落したり変わったりしたと思われる箇所もあるが、全体としては非常によく保存されている。もし仲里兄弟が19世紀初頭や18世紀の人たちであったとすれば、パッサイの起源はそれだけ遡ることになり、空手の歴史が書き換わることになる。

かりにこのパッサイを、便宜上「古流本部パッサイ」と命名すると、この型(踊り)には空手史上大きな意義がある。たとえば、廃藩以前のパッサイの存在とその特徴、唐手踊りの歴史、首里から地方への唐手の伝播、武術と地方祭祀との関係等の考察にとって大きな手がかりとなる。

また沖縄県が目指している空手のユネスコ無形文化遺産への登録実現にも役立てることができるかもしれない。

後日、この古流本部パッサイを、本部朝勇の長男・本部朝明もとぶちょうめいが伝えた「本部御殿のパッサイ」等と比較しながら、その特徴を分析していくことにする。

注 「第5回 特選 沖縄の伝統芸能」プログラム、沖縄県文化協会、2017年。

出典:
「『亀ぬ甲』踊りと古流本部パッサイ」(アメブロ、2022年5月10日)。

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