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小ネタ:鈴木涼美「アタマの良い冷たい若者たち」と、友なく孤立する若者たち

元イさんなのだ。ほとんど無料でおまけのみ有料なのだ。


cakesに掲載されている鈴木涼美さんの連載「ニッポンのおじさん」の最新回「ひょっとして死ンデレラ」に面白い記述があったので、毎度のごとく「非モテ克服」をテーマに小ネタを書いていこうと思うのだ。

↑鈴木涼美さんの新刊なのだ。



アタマの良い冷たい若者たち

それは冒頭のこんな記述だったのだ。気になった箇所は太字にしたのだ。

アタマの良い冷たい若者たち
 若さ故に見せなければいけないアタマの良さというのはきっとあって、それは多くの場合に奇妙な迫力を持って示される。少し前に、憲法改正について、超若者世代と準若者世代が意見交換をするという番組に最年長グループとして呼ばれて、一度に何人かの大学生とやはり何人かの大学を卒業したての起業家や活動家と数時間話したのだけれど、若ければ若いほどアタマが良く、そしてとても冷たかった。そのような場では優しさなんていうのはとても愚鈍で不格好で、若者たちがそのような態度を嫌うのもある意味よくわかる。
私自身がかつて19歳であり21歳であり、そういう、必死に知的な見栄を張らねばならない学生だったから、性格が良いと言われても嬉しくはないがアタマが良いと言われると嬉しいという気分は身に覚えがあるし、本来は比例するはずのその二つが、まさかの反比例するような錯覚も確かに持っていた気がする。 優しさというのは想像力で、想像力というのはアタマの良さと経験の豊富さでしか手に入らない。だから本来はアタマの良さを冷たさで表現するなんていうことはおかしな話で、ひたすら自分の経験に欠けることを露呈しているだけなのだけど、若者はそれをしたがるのだ。どんな価値も相対的にしか語らず、時に死を過剰に軽視する非情さを演出し、それが合理的な判断に結びつくのだと宣う。

リンク先の記事の冒頭の二段落がこれなのだ。非常に密度の濃い記事なのだ。

またこういう記述もあったのだ。

人の死を悲劇やノスタルジーではなく、数字で把握できるその「アタマの良さ」はすなわち、死と隣り合わせになったことがない人間、身近な死によって自分自身が変容するという経験がない人間の所業だと私には思える。

つまり「死」をリアルに想像をしない、むしろ極力避けて隠した世界で構築されたアタマの良さ、という文章がこの記事の後半で展開されているのだ。

さらに「死をリアルに感じてしか得られない想像力もある」というテキストもあるのだ。しかしその「想像力」を排した合理性、無敵感が「アタマの良い冷たい若者」を作っているのだ。合理性、生産性、無駄の排除、それは何の役に立つのか、という冷たい考え方なのだ。

ぜひ、興味のある方は一度読んでみる事をお勧めするのだ。次回が更新されると会員しか読めなくなるのだ。



冷たく賢くあろうとして、人と仲良くなれない


小ネタなのでサクサクと書くのだ。クールで賢くないといけない、そんな強迫観念にかられた若者は、SNSで全力で冷たく想像力に欠けた正論で己の賢さをひけらかし、時には議論という名のレスバで、どっちがクールで賢いか相撲をとっているのだが…

残念ながらもし仮にそれで人から尊敬を勝ち取れたとしても、友人を得る事には失敗しているのだ。最大限上手くいったら信者はできるかもしれない、しかしそれは友ではないし、ましてや恋人ではないのだ。冷たく時に残忍な主張で多くの人を傷つけ、バカだ愚かだと他人を罵倒し続ける自分を評価してくれる隣人にすぎないのだ。

人と親しくなるのを邪魔する想像力に欠けた優しくない態度なのだな。

しかし残念ながら、そのような態度では人と仲良くすることはできないと思うのだ。Twitterなんかでの「アタマの良い冷たいふるまい」の一つに「他人の発言の欠点」のあげつらいなどがあるのだ。つまり延々と他人をdisってれば賢く見えるというわけなのだ。(元イさんもここで「アタマの良く冷たい若者」をdisっているので入れ子のようになっているのだが)



「死の恐怖」から遠ざかるため、賢くあろうとする若者

おそらく「クールで賢くないといけない」というのは「賢くなければ生き延びられない」「無駄を排した有能な人間でなければ野垂れ死ぬしかない」という「死の恐怖や不安の裏返し」なんではないかと思うのだ。

「死のない生活が虚構であること」

冒険家で作家の角幡唯介は以前、自分が冒険に出る一つの大きな理由として、「死を媒介にしなければ感得することのできない」世の原理や真実を感じるためだ、というようなことを書いている。「生活から死が排除された結果、現代では死を見つめて生を噛み締めるためには冒険にでも出るしかなくなった」のだ、と。そして現代人が閉塞した人生を送らざるをえなくなったことは、日本から荒地が無くなり、死から切り離されてしまったからなのではないか、と、現代という時代の行き場のないどん詰まりの様子を説明した。
  私はこの彼の言葉を妙な説得力とともに好んで読んだ。彼に一度だけ対談で会ったことがあって、彼は変な人ではあるのだけど、優しさが抜け落ちた感じがしなかった。だから私にはその「死のない生活が虚構であること」を知るために冒険に出るという信念はすなわち、優しくなるために冒険に出るのだというのとほとんど同義に感じる。

こちら記事からなのだ。

自分から努めて「アタマの良く冷たい若者」であろうとする人たちは、全力で「無駄な人材として社会から見捨てられて野垂れ死に」しないようにあがく姿なんじゃないかとすら思うのだ。

現代日本は非モテに不可抗力で育てられてしまう、という記事 ↑ を以前書いたのだが、これにしても「無駄」を排除して最大限効率化をはかって育てられた弊害かもしれないのだな。



しかし、かといってその「野垂れ死に」を恐れて

これをやり続けていては友人はできないのだ。必死で自分を「クールで賢い」とアピールしていても「友を獲得する」という観点から見たら無駄なのだ。

元イさんは「結婚できない問題」は「友達を作れる自分になる」ことができれば克服できるんじゃないかと思っているのだ。他人と親しくなれる、信頼関係を結ぶことができるかどうか、なのだ。


こちら友情を獲得する方法について書かれた本の紹介記事なのだ。

親しくなるには「無駄を排除した、想像力と優しさに欠けた賢さ」をひけらかすことではなく「無駄を愛し、他人について想像力を働かせて優しくあろう」という姿勢なんだと思うのだ。敬意なのだな。


目の前にいる他人と親しくなることが無駄かどうかは、親しくなってその人を知らなければわからないのだ。

その無駄を愛せ、と言いたいのだ。



数百、数千人とつながってるのに出会いがないTwitter

そして↑のテキストなのだ。Twitterで非モテ系の男子女子問わず「出会いが無い」の大合唱なのだが…数百、数千人とフォロー・フォロワーという形でつながってるのに出会いが無いわけないだろ!!!むしろ出会いしかないじゃん!!ふし穴か!!と、冷静に思ってしまうわけではあるのだが、



出会ってはいても、関係が作れない

という事かと思えば納得できるのだ。「自分の賢さ」をひけらかし続けるTwitterスタイルでは、せっかく出会った新規のアカウントとも関係を構築することはできないのだな。相互監視してこっそりふぁぼったり乾いたリプライを送りあったり、賢さバトルに展開したりのTwitterライフなのだ。


願わくば、非モテがこじれて、友人がいなくなり孤立してしまった人には、もう少し想像力を働かせて「アタマの良く冷たい人間」になっていたり、そうなろうとしていないか自分の身を振り返ってみてほしいのだ。


ちょっと昔から相互フォローのアカウントに、親切にしてみたり、気になるツイートしているのを見たら声掛けのリプライをしてみるといいのだ。仲良くなりたいアカウント、気になるアカウント、何でもいいのだ。まず相手を知る事、そのために声をかけてみるのだ。なるべく親切で優しい穏やかな、相手に良い気持ちでいてもらうための声掛けなのだ。

きっと「悪く思っていない」という事は伝わるのだ。そこから始まる人間関係もあるのだ。


人付き合いも恋愛も、基本からコツコツと積み重ねていくのだ。


↓ そんな一からコツコツと人付き合いと恋愛に向き合って積み重ねていく僕ヤバ、おすすめなのだ。


ここからは、おまけの有料投げ銭コーナーなのだ。鈴木涼美さんの「ひょっとして死ンデレラ」にあった「死のない生活が虚構であること」について

つまり「アタマの良く冷たい若者」の賢さは「虚構」の賢さという事ではあるのだが、それについて、非モテ関係ない完全に個人的な雑文をちょこっと書くのだ。「死が身近にある生活」なのだ。

早く次の記事を書け!という方は何卒宜しくお願い致しますなのだ。




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