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ヒラン・ベンスーザン『指標主義』について(『現代思想』ブックガイド特集論稿への追記)

雑誌『現代思想』の2022年1月号は「現代思想の新潮流 未邦訳ブックガイド30」という特集となっている。ぼくも一冊紹介させてもらった。

依頼をいただいたとき、ちょうど前々から気になっていた本が出版されるタイミングだったので、その本について書くことにした。ブラジルの気鋭の哲学者ヒラン・ベンスーザンによる新刊『指標主義─実在論と逆説の形而上学』だ。

本書は、エディンバラ大学出版局の「思弁的実在論」叢書の一冊として出版されたものである。出版直後に3日間にも渡るオンライン・シンポジウムが開催されており、そこそこの話題書であると思う(シンポジウムの記録は、オンライン雑誌Cosmos and Historyの第17巻第2号に収録されている)。なによりも、思弁的実在論に対して新たな切り口からの批判が展開されているところが、ぼくにとっては興味深い。詳しい内容については『現代思想』所収の論稿に書いたので、良かったら読んでみてほしい(思弁的実在論批判についてはここではあつかわないので、関心のある方はぜひ論稿のほうを)。

ここでは、その論稿に書ききれなかったことを中心に書きたいと思う。本記事は、以下のような構成となっている。

1 指標主義の内部から」では、ベンスーザンの立場について簡単に紹介する。ここでの議論の前提となるので、論稿でまとめた内容の超圧縮版を提示することにしたい。加えて、論稿のほうには書ききれなかったベンスーザンによる興味深い議論についても紹介する。

2 指標主義の外部へ」では、ベンスーザンの議論を読んだうえで、ぼくが考えたことを示す。本記事のメインはこちらだ。

1 指標主義の内部から

1.1 『指標主義』の立場について(超圧縮版)

ベンスーザン『指標主義』の内容について、おおまかに確認しておこう。ベンスーザンは、本書のタイトルにもなっている「指標主義」(indexicalism)という立場を打ち出す。対立するのは「実体主義」(substantivism)である。

指標主義は、「これ」や「あれ」といった指示詞・指標的なものを重視する。実在とは指し示されるものであり、特定の位置を占めるものである、というのが指標主義の基本的な考え方だ。

これに対して実体主義は、実在から指標性を剥ぎ取り、実在を名詞・実体的なものとしてあつかう。実在は、どこでもないところから眺められた中立的な実体としてとりあつかわれることになる。ベンスーザンは、こうした実体主義の形而上学を告発し、指標主義の立場を標榜するのである。

さらに、指標主義からは「他者の形而上学」(metaphysics of the others)という立場が導かれる。ベンスーザンにしたがえば、指示詞・指標的なものは、それを超えた外部性に晒されている。そこには不透明な他者がまとわりついているのだ。この事態を忠実に描き出そうというのが、他者の形而上学である。

指標的なものが他者と接する境界は、地平線のようなあり方をしている。地平線とは、位置に相対的に立ち現われる線である。わたしが動けば、地平線も動くだろう。地平線の彼方にはつねに不可視のなにかがある。他者は、地平線の彼方のようなものとして、指標的なものを取り囲んでいるのである。

ところが、実体主義は指標的な位置から飛び去り、地平線の上空へと飛んでいく。位置に相対的に成り立つ地平線は、そのようにして上空から眺められると消滅してしまう。実体主義は、ドローンから見られたような上空からの眺めによって、すべてを透明な構造のうちに描きだし、他者の超越を消し去ってしまうのだ。ベンスーザンは、こうした振る舞いの形而上学を「ドローン形而上学」と呼ぶ(ベンジャミン・ノイスから借用された概念)。ドローン形而上学は、すべてを俯瞰することによって透明な全体性を追求する形而上学である。ベンスーザンは、そうした全体化に抗い、不透明な他者性を形而上学のうちに引き留めることを目指す。

以上の他者の形而上学というアイデアは、エマニュエル・レヴィナスの他者論に多くを負っている。ベンスーザンは、そこにアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの汎知覚論を織り合わせることによって、たんに人間が人間に語りかける倫理的な場面を超えて、実在一般の理論として他者の形而上学を展開する(すぐ後で確認するように、これは逆説的な試みである)。

ベンスーザンが展開するレヴィナス×ホワイトヘッドの形而上学を要約すれば、おおよそつぎのようになる。知覚とは、あらゆるタイプの他者に対して応答する場である。知覚者を目的論的に統御している「アジェンダ」は、この応答をつうじて「中断」(interruption)を被ることになる。つまり、自己同一化の働きが中断され、他者へと開かれることになる。さらに言えば、このような意味での知覚をしているのは人間だけでない。あらゆる事物(猫、岩、ニュートリノ…)が、そうした知覚の場なのである。

これが、実在一般の理論として拡張された他者の形而上学である。だがすぐに気づくとおり、これではドローン形而上学の誤謬を犯していることになってしまうだろう。指標的位置から飛び去り、あらゆるものに等しく適用される全体的な構造を提示しているからだ。真の他者の形而上学は、この構造そのものにとっての他者を担保しなければならない。そこで提示されるのが「逆説的形而上学」(paradoxico-metaphysics)である。

他者の形而上学は逆説的形而上学である、とベンスーザンは言う。一般に形而上学は、あらゆるものに適用可能な全体的構造を提示する。だが、他者の形而上学は、そうした全体化の不可能性を主張する。その意味で、それは逆説的で自己破壊的な形而上学なのである。

先ほど確認したように、他者の形而上学にしたがえば、あらゆる存在者は知覚において自己同一性が中断され、他者へと開かれる。だが、この全体的な構造を形而上学的に語る思弁の働きそのものもまた、中断されなければならないのだ。「他者の逆説的形而上学は、外部性への徹底した指向にもとづくがゆえに、中断された思弁を例証する」(p. 167 強調引用者)。この「中断された思弁」とは、すべてを透明に描き出そうとする働きにブレーキがかかった状態の思弁である。

中断された思弁は、自らが提示する構造を絶対化せずに、理論を他なる説明の可能性に開かれた状態で放置する。「…〔他者の形而上学の〕結論は、最終報告書よりも、むしろブレインストーミングに近いものになる」(p. 84)とベンスーザンは述べている。

まとめよう。ベンスーザンが主張する指標主義と他者の形而上学は、徹底して他者性・外部性を指向する。そこには、理論内部の中断だけでなく、理論化そのものに到来する中断がかかわっているのである。

1.2 全体化と植民地化

以上が『指標主義』の紹介(超圧縮版)である。本節では、『現代思想』の論稿に書ききれなかった同書の論点をひとつ紹介したいと思う。

ベンスーザンは、全3章から成る本論の最後で、ニック・ランドの論文を引用し、「植民地化」のメタファーを取り出す。外部を内部に服従させようとする認識のあり方が、植民地化と重ね合わされるのだ。その流れを受けて、結びではボリビアのポトシ銀山が取り上げられる。

ポトシ銀山とは16世紀にスペイン人により採掘され、大量の銀がヨーロッパに流通するきかっけとなった銀山である。ベンスーザンは、すっかり荒れ果てたポトシ銀山について、指標的でローカルな力が抜き取られたのだと述べる。ポトシ銀山のローカルな力(つまり銀)は、スペイン人によって採掘され、無視点的でグローバルな価値へと変換されたのである。

ベンスーザンは、ローカルな富を抜き取りグローバル化する植民地化を、実体主義の振る舞いと重ね合わせている。実体主義は、実在の指標性・ローカル性を引き剥がし、中立的な実体へと変換する。そして、それを全体的な構造のうちに位置づける。だが指標的なものは、こうした全体化の働きに抵抗するのだとベンスーザン述べている。全体化・植民地化に抗う指標的なものというイメージが提示されているのだ。

『指標主義』は、本論において抽象的で普遍的な議論が展開されるが、結びに入ると急に南米という指標性に密着した具体的な議論が展開されることになる。援用される議論も指標性密着的で、南米の哲学者エンリケ・デュッセルの議論が援用されたりする。雰囲気がガラリと変わり、読んでいて面白いところである。

2 指標主義の外部へ

2.1 ベンスーザンの「中断された思弁」とホワイトヘッドの「思弁哲学」

ここまでは、ベンスーザンの議論に内在的に紹介してきた。ここからは、ベンスーザンの議論そのものからすこし離れ、ぼくが考えたことを簡単に示しておきたいと思う。まずは、ホワイトヘッドのあつかいについて。

ベンスーザンはホワイトヘッドを(ある程度)重視するにもかかわらず、そのあつかいは十分ではないように感じられた。『指標主義』第3章では、レヴィナス×ホワイトヘッドの知覚論を展開することが宣言されるのだが、そこで出発点とされるのはホワイトヘッドの知覚論ではなく、セラーズとマクダウェルによる「所与の神話」をめぐる議論である。しかし、ホワイトヘッドの汎知覚論にレヴィナスの他者論を入れ込むという目的があるのであれば、やはりホワイトヘッドの知覚論から出発するべきだろう。

ホワイトヘッドは主著『過程と実在』において、経験の生成過程について詳細に(あまりに詳細に!)論じている。外部からあたえられた与件から、いかにして経験が成立するにいたるのかを事細かに論じているのだ。ベンスーザンの目的からすれば、この議論についての考察は絶対に外せないはずだ。

以上の点は、ホワイトヘッドをあつかううえでの明らかな不十分さにかんするものである。おそらくホワイトヘッドの研究者であれば、だれもが感じることだろう。

これに加えて、もうひとつ不十分さを指摘したいと思う。こちらは、それほど明らかではない不十分さについてである(つまり、すべてのホワイトヘッド研究者が感じることはないかもしれないものについてだ)。

まず、あらためて本記事の1.1で確認したことをまとめておきたいと思う。ベンスーザンの他者の形而上学が指向する他者性には、ふたつの次元のものがあると言える。

  ① 理論内部の他者性
  ② 理論そのものを襲う他者性

①は、知覚者の自己同一性が他者に晒され中断される、という構造をめぐるものだ。②は、この構造そのものを語る思弁の働きが中断される、という事態にかかわる。

ホワイトヘッドの場合、ベンスーザンが指摘するとおり、たしかに①の次元の他者性が欠けていると言えるかもしれない。 ホワイトヘッドが語る経験には、「主体的指向」(subjective aim)と呼ばれる強力な目的論的装置が働いている。この装置をつうじて、外部からあたえられた与件が、経験の主体を構成するための材料として配置されていくことになる。そこには他者による撹乱・中断といったものはない、と言えるだろう。

だが他方で、②の次元(理論そのものを襲う他者性)については、ホワイトヘッドも語っている。ホワイトヘッドは、あらゆる存在者の構造を「有機体の哲学」と呼ばれる図式によって語りだすのだが、この構造そのものの更新可能性について、哲学の方法論の文脈で語っているのである。

「有機体の哲学」は、ベンスーザンの言い方を借りれば、たしかにドローン形而上学の誤謬を犯している。だがホワイトヘッドは、自らの形而上学的図式が絶対的で不変のものだとは考えていない。「思弁哲学」と名付けられた彼独自の方法論は、実在のさらなる探求によって、図式が更新されなければならないということを述べている。思弁そのものが実在という他者によって撹乱・中断されるのだ。ホワイトヘッドの形而上学的探求を駆動する思弁は、ベンスーザンの主張する「中断された思弁」というあり方をしていると言えるだろう。

ホワイトヘッドを取り上げ、さらに思弁というものの問題点を論じるのであれば、ホワイトヘッドの方法論である思弁哲学についても言及したほうが良かったのではないかと思う。きっと、ベンスーザンの「中断された思弁」を補強する材料となったはずだ。

(ホワイトヘッドの方法論をめぐる考察にかんしては、拙著『連続と断絶─ホワイトヘッドの哲学』第6章を参照してほしい)

2.2 ハーマンの関係主義批判について─破壊的関係へ

つぎに指摘したい論点は、関係についてである。

グレアム・ハーマンは、『指標主義』のオンライン・シンポジウムの発表で、ベンスーザンが関係を重視しているように見える点を批判している。ベンスーザンは、ホワイトヘッドの「ウルトラ関係的形而上学」に対して、レヴィナスの他者論をもって対抗しているにもかかわらず、けっきょく指標的なものを関係的なものとしてあつかっている、と言うのだ。

ぼくもこの点には同意する。ベンスーザンの議論は、内在の哲学(ホワイトヘッド、ドゥルーズ、スタンジェール、ラトゥールなど)に引っ張られて、他者の超越性が弱められてしまっているように思う。彼は、ユクスキュルの議論などを肯定的に援用するのだが、それは戦略として間違っているだろう。マダニが環境内のある情報を重要なものとして捉え、それらとの関係をつうじて、自らの環境を構築している、という議論のうちにはまったく他者性はない。他者による中断とは、そうした環世界そのものをぶち壊しにやって来るものでなければならない

ハーマンは、現代哲学のうちでもっとも関係嫌悪的な哲学者である。少しでも関係的な要素を肯定的にあつかっていれば、「関係主義」というレッテルを貼って批判する。そうすることで、対象の強固な自立性を浮き立たせようというのが彼の戦略なのである。

だが、ベンスーザン(+レヴィナス)の議論を読んで、ある種の関係は認めるべきなのではないか、と思われた。もっと言えば、関係には二種類あるということだ。それぞれつぎのように呼ぼう。

  ① 調和的関係
  ② 破壊的関係

①は、他のものを自己の世界の構成要素とするような関係だ。対象の自立性を確保しようとする立場(ハーマン)や、他者性・外部性・不透明性を確保しようとする立場(ベンスーザン)は、これを徹底的に回避しなければならない。

②は、自己の世界を破壊しにやって来るものとの関係である。ベンスーザンの言葉で言えば、「中断」がこれにあたる。環世界を構築しようとする働きが中断され、そうした世界が破壊されるような関係だ。中断とは、不透明な項によってもたらされる破壊的関係である。「対象」派も「他者」派も、この関係のみを認めるべきだと思う(ハーマンの議論において、「魅惑」という事態はこの破壊的関係に該当すると思われる)。

2.3 他者の形而上学から、中断の形而上学へ

最後に、中断という概念について。

『指標主義』で頻出するこの「中断」という概念が、ぼくはとても気に入った。言及されていないが、おそらく元々はレヴィナスに由来する概念だ。彼の後期の著作である『存在するとはべつの仕方で』のなかで、「存在することの中断」(interruption de l'essence)という形で使われている。

英語・フランス語のinterruptionは、ラテン語のinterrumpereに由来する。interrumpereには「中断」の意味もあるが、第一の意味は「切断する」「ばらばらにする」である。積み上げてきたもの、自己同一的なものを、ばらばらに切断し、引き裂いて、破壊し、中断させる。そんなイメージだ。

「他者の形而上学」を標榜するよりも、むしろ「中断の形而上学」を主張したほうが良いのではないか、とぼくは思う。他者の形而上学が想定する事態が成り立つためには、割とおおくのものが必要になる。まず、自己同一的な項。そして、それを超越した他者。さらに、そのふたつのあいだで引き起こされるある種の因果的な関係。これらがセットで揃うことではじめて、他者の形而上学が想定する事態が可能になる。

中断の形而上学は、もっと身軽だ。中断の可能性に取り憑かれた自己同一的な項だけがあれば良い。少なくとも、他者という装置は必要ない。どんなものも、なんらかの仕方でとつじょ中断(ないし引き裂き)を被る。そうした時間的な不透明性・闇が、あらゆるものに取り憑いているのだ。こうした事態を語るのが、中断の形而上学である。

(中断の形而上学は、ぼくがいま構想中の「破壊の形而上学」につながる。以下の記事を参照)


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