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過剰創発宇宙

わたしたちが現に住むこの宇宙とはべつの宇宙について想像してみたい。

たとえば、放っておくと、つぎつぎとまったく新しいものが生みだされてしまうような宇宙。イノベーションしかない宇宙。それを、過剰創発宇宙と呼んでおこう。

一般に、新しいものが出現することを「創発」と呼ぶ。たとえば、わたしたちの宇宙では、進化のある段階において、物質からそれとはまったくタイプの異なる精神が創発した。これは、まったく異なる新たなものが現れたという意味で、かなり強い創発である。

わたしたちの宇宙では、強い創発はこのひとつしか存在しない。宇宙が誕生してから何十億年も経った段階で、物質から精神が創発した。それっきりである。

だが、そこからさきの、さらなる創発があっても良いはずだ。もっといえば、そうした強い創発が頻繁に生じたって良い。過剰創発宇宙とは、まさにそうしたことが生じている宇宙である。それは、わたしたちの宇宙の創発的進化を超早回しにしたような宇宙だ。そこでは、わたしたちの知らないより高次の性質をもつものが、つぎつぎと生みだされていくことになる。想像不可能性が一瞬一瞬べき乗化されていくのだ。そこには、つねに強い新しさしか存在しえないのである。

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ところで、過剰創発宇宙論から見た場合、生成変化の哲学はひじょうに貧しい哲学であるといえる。生成変化の哲学は「あらゆるものがあらゆるものと関係し、つねに新たなものへと生成変化している」と主張する。だが、この現実世界を見てほしい。どこにそれほどの新しさが存在するのだろうか。生成変化の哲学は、たいした新しさも生じていないこの現実世界を指して、つねに新しさが生じているのだと宣伝しているにすぎない。現実世界のわずかばかりの差異を過大評価しているのだ。生成変化の哲学は、貧しい新しさに満足することを強いる、質素倹約型の、ある種の道徳哲学だといえる。

過剰創発宇宙とは、豊かすぎる新しさが実際につぎつぎと生まれる宇宙である。そうした宇宙の可能性について思弁するのが、過剰創発宇宙論だ。貧しい新しさを過大に賛美する生成変化の哲学に対して、過剰創発宇宙論は豊かすぎる新しさについて思弁する。

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では、過剰創発宇宙において、生命のようなものが存在するとしたら、どのようなものになるだろうか。過剰創発宇宙で「生きる」とは、どのようなことを意味するのだろうか。その点について考えてみたい。

過剰創発宇宙では、放っておくと、あらゆるものがつぎつぎとまったく新しいものへと変化していってしまう。物質から精神が創発し、精神から$セᶭ%ᴶが創発し、$セᶭ%ᴶから#!|⁶?*が創発し…ということが、つぎつぎと生じていく。生命のようなものがそこで存続するためには、こうした「自然」の創発になんらかのブレーキをかける必要があるだろう。創発の連鎖をなんらかの仕方で減衰させることができたときにはじめて、生命のようなものは生存環境を構築し、存続できるようになる。

「死」はどうだろうか。わたしたちの宇宙では、死は、生命が失われて低次のレイヤーの物質へ解体されていくことを意味する。死ぬと複雑さを失い、動きを欠いた単純なものへと還元されていく。だが、過剰創発宇宙では、事態は逆である。死ぬと、むしろ活性化し複雑になっていく。死者は過剰創発に飲み込まれ、より高次の他なるものへと変化していくのだ。過剰創発宇宙においては、生者よりも死者のほうがはるかに活発でクリエイティブなのだといえる。

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わたしたちの宇宙では、強い創発はほとんど生じない。この宇宙は、過少創発宇宙である。だが、この過少創発宇宙そのものが、とつぜん過剰創発宇宙へと「創発」する可能性だってあるはずだ。過剰創発宇宙は、この現実世界からまったくかけ離れた、ほとんど無縁のたんなる可能世界ではない。わたしたちのこの宇宙そのものが、なんの理由もなくとつぜんつぎの瞬間に、過剰創発宇宙へと生成変化してしまうかもしれないのだ。宇宙そのものを生成変化させる、強い創発。過剰創発宇宙論は、このような創発の可能性についても思弁する。

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