湊かなえ氏の告白は厨二病を叩きつぶす
湊かなえ氏の告白を読んだ。
今さらであるのだが、ダウナー系小説を読むことにハマっているためイヤスミの女王とよばれている彼女の代表作の一つを読んだ感想記事である。
ダウナー系を読む理由は端的に「安全であることの愉悦」ってやつなのだと思う。
※読者にも語り掛けられているシーンだと思う
話を戻すと、「告白」は、まず退職する教師がクラス内での挨拶で、自分の娘がクラスのある二人によって殺されたと告白することから始まる。
「章」が分かれており、各パートそれぞれの人物からの視点で事件の真相と真理が暴かれていくといった具合だ。
当然、人物が変われば印象も変わるということで、ある事象に対しての捉え方が次の章、次の章と移り変わることで変わっていくため、読者としてはそれぞれの人物に憑依しつつ次第に神の視点へと昇華していく体験ができる。
各章の登場人物は自らに起きた悲劇をどこかフィクションの主人公としてとらえている節がある。
そしてその事柄を、次の章の人物に「悲劇のヒロインぶる愚か者」として否定される。その言葉は辛らつだ。
先述の通り読者としては、神の視点の解像度が上がっていくため、他者を否定する残酷な言葉でさえ「その通りだ。」と、優越感を持って肯定していくのではなかろうか。
この文章をしたためながら、同作者の「母性」も読んで改めて思ったのが、各キャラクターの異常性は実際に我々の中にいるだろうリアリティだ。
それを小説として・・・ある種のエンタメとして成り立たせているのが、0.5歩進んだような個性と、その個性絡み方なのだろう。
誰しも登場人物のポジションになぞらえ、「こういうところあるよな。」って思った先に、0.5歩異常性に食い込むスリル、ふと自分がやってしまいそうな、あるいは過去にやってしまったような恐怖が食い込んでくるのである。
イヤミスの「嫌」が何なのかと考えた場合、湊かなえ氏の場合、異常性のスリルよりも、各々コンプレックスを持っている同族嫌悪のようなことが大きいのではないだろうか。
「告白」で言えば、所謂「厨二病」というやつで、コンプレックス故に自分が何者かであるかのように思い込みたい心理が各キャラクターの独白で現れてくる。
先も述べたが、次の章の別人物の独白ですぐ否定されるのだが、その否定こそ非常に痛快さすら伴う。しかし、事実としては子供が一人死んでいるということ。否応にもなく自身の下世話な残酷さも突き付けられるということだ。
さらに、一つ掛け違っていたら、自分の人生においてもそんな闇がさしていたのかもしれない。それは被害者としてでなく当事者として。そんな恐怖を引き起こし、今の安全地帯である自分にホッとさせられる。
そのさじ加減が絶妙なのだ。
自分の息子が中学生になったら是非読ませたい一冊である。僕が何か言うよりよっぽど大人にしてくれるだろう。
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