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新宿歌舞伎町『テルマー湯』

京都は梅湯での華々しきサウナデビューから一夜明け、清水寺や伏見稲荷などベタな観光を終えて東京に戻ったが、そのままの足で師に連れられ、タクシーで歌舞伎町へと向かった。花園神社とゴールデン街の間の雑多な路地を進んでいくと、突如として真新しい大きな建物が現れる。壁面に大真面目な書体で「テルマー湯」という文字が貼りついていて、冗談言っているんだか真面目なんだか、曖昧なようすでぼうっと緑色に光っている。

テルマー湯は3年ほど前に出来たばかりの新しい温泉スパ施設で、歌舞伎町のど真ん中にありながら温泉露天風呂に浸かれるという歓楽街の楽園的存在らしい。果たして歓楽街に楽園があっていいのか、ただでさえ歓楽の街のはずなのに更なるオアシスなんて、と思うと魅惑の町のドロドロした闇の部分を勝手に想像してしまって、イメージを避けるように自動ドアをくぐる。

店内は清潔で光に満ちていて、それはこれから安らぐことを肯定する明るさだった。靴を脱ぎ、駅の自動改札機のようなゲートをくぐるとロビーになっている。受付は少し込み合っているようだったが、広いカウンターから次々に「こちらへどうぞ」と声がかかり、スタッフの右手がスッと挙げられて、客たちはどんどんカウンターへ吸い寄せられていく。

受付では簡潔にシステムが説明された後、番号の書かれたアームバンドがコトンとカウンターに置かれて、帰るときまで装着しているように言われる。続いて奥にあるリネンカウンターへ誘導され、そこで館内着やタオルの入ったバッグを受け取った後、さらに奥にある脱衣所へ案内された。少し照明を落としたラグジュアリーな脱衣所には、広々としたパウダールームや休憩スペースが設けられていて、清掃も行き届いている。ひと回り偵察し、立ち並ぶたくさんのロッカーからアームバンドに書かれた番号と同じ番号のロッカーを探す。ロッカーの扉は施錠されていて鍵穴もなく、おかしいと思って何度も番号を確認したが、ふとアームバンドを扉にかざしてみたら電子音が鳴ってあっさり解錠した。なるほどここでは全てがこのアームバンドと番号で管理されているらしい。周りをよく見渡すと、そばにある自販機にもコインを入れる穴はなく、アームバンドをかざすためのセンサーが付いているのみ。金銭のやりとりの一切もこのアームバンドで管理され、最後に外界へ出る時に耳を揃えて支払うシステムのようだ。

わたしはいま番号で管理されている。そう考えながら服を脱いでいくと、外の世界からどんどん切り離されていくようだ。脱いだ服をハンガーにかけてロッカーにしまい、代わりに先ほど渡された館内着を着る。館内着はワンピースタイプか上下に分かれたタイプかの選択制だったので、リラックスに重きを置いてワンピースタイプを選んでいたけれど、総柄ピンク系のキャミソールワンピのようなものにショッキングピンクのボレロを羽織るといったもので、年甲斐もない。これはどの年代の人が着ても年甲斐はなくなると思う。可愛いといえば可愛いけれど、ひと昔前のコギャルのようでもあるし、林家パー子のようでもある。これでいいのかしらと周りを見渡せば、皆それぞれきちんとショッキングピンクだ。みんなで着ればこわくない。まあいいか。それを着る。ピンクのボレロなんて滅多に着ないし。なんにせよこのあとすぐ脱いでお風呂に入るのだから、別に今何を着せられたってかまわないのだ。下着をつけたままにするか少し迷ったけれど、やけくそで上も下も脱いでしまった。

タオルと洗面用具だけ持ってエレベーターに乗り、女湯のある階へ移動する。裸足のまま、下着もつけずにエレベーターに乗るのには淡い興奮があった。エレベーターを降りるとまた脱衣所がある。この脱衣所にもしっかりとパウダールームが設けられており、女優さんが使うみたいなランプ付きミラーのドレッサーにヘアアイロンの貸し出しまで、至れり尽くせりの空間だった。

浴場は広く、内風呂が6つくらいある。半露天の外風呂には中伊豆の方の温泉が引かれているらしく、寝湯もあった。いつもだったらひとつひとつのお風呂をじっくり順番に楽しみたくなるところだけど、今日はサウナだサウナ。お風呂には目もくれず、髪とからだを洗ってすぐにサウナエリアへ直行した。

サウナは2種類あるようだ。2つの扉の横にそれぞれ電光掲示板があり、赤い文字で中の温度が記されている。左の扉は48度、右は85度とあったので、85度の方に入った。昨日の梅湯のサウナよりずいぶん広い部屋。大きなテレビもある。キリッと熱いが適度に湿度もあるので息苦しくはない。腰掛けるところは3段になっていて、詰めればお団体さまの記念写真が撮れそうな具合だ。とはいえこの時は4人ほどの先客が一定の間隔を置いてぽつりぽつりと座っているのみだった。わたしもそれに倣い、入り口寄りの真ん中の段に腰掛ける。

テレビでは「秘密のケンミンショー」をやっていた。大勢のタレントさんたちが若手大御所まぜこぜでひな壇に座り、絶妙な掛け合いでご当地トークを繰り広げている。まあこちらもテレビの画面を挟んでちょうど向かい合うような形でひな壇のようなところに座っているわけだけれど、軽妙なトークどころか一切の会話もなく、ただ大人の女数名が汗だくのあられもない姿で座っているだけ。奇妙である。なにやってるんだろうこの人たちは。なにやってるんだわたしはここで。

こういうことを考え始めてしまうとわたしはだめになってしまう。わざわざこんな暑いところにはだかでいて、汗だくのくせに真面目な顔してずっと座っているのもばかばかしく、かといってそのように達観して素直に楽しむことができないことも情けなく。何をどうしたって後ろめたい自分を虚しい人間と思わずにいられない。新しく部屋に入ってきた人は、なんの躊躇もなくとても自然な態度でこの奇妙なひな壇に溶け込んでいる。なのにわたしはなんだろう。サウナに限らず、何につけてもそうなのだ。脳みそのどこかからもうひとりの自分がびょいびょいと身体の外に伸びて出て、客観的な視線でからだを縛り付ける。本気の奴ってくそダサいよなって冷笑する思春期の不良みたいな、でもそういうスカした奴がなんだかんだいちばんダサいよねって2人の自分がお互いをディスりあって、心の奥の方は泣きたくなっている。テレビの向こうできちんとした格好のひとたちが正しくドッと沸くように笑って、それから目をそらすようにうつむいたわたしを大粒の汗が這う。胸からおなかへ、ももからふくらはぎへ、つまらない凹凸をつるつるととこぼれ落ちる汗の粒たちは、限りなく涙に近かろう。

しばらくそうやって全身で泣いているうちに、鼓動はどくどく速くなり、昨夜の恍惚の記憶を呼び覚ましていた。そろそろ水風呂に入りなさい、誰かがそう言ったような気がした。そうだ水風呂に入ろう。水風呂に入ったらまた無敵になれる。ここからはじまるシンデレラストーリー。水風呂に入れば魔法にかけられたかののうになにも悲しくなくなって、つよいこころになって、くよくよしなくなって、大丈夫になれるはずだ。

シャワーで汗を流して水風呂に行くと誰もいなかった。しんとした水面。定期的に吐水口から勢いよく新しい水が注がれるが、それがおわるとまたしんとした水面に戻る。水はとてもつめたく、温度計は16度を指していた。水中の段差をゆっくりと下って首もとまで体を沈め、舞踏会に行きたいなあと唱えれば、あら不思議いつの間にやら滑らかなドレスのような羽衣を纏っている。さながらシンデレラの物語、夢か魔法のようだ。その夢か魔法にできるだけ、現実のわたしの肉体をめり込ませるように集中する。〈ととのい〉のお城の入り口が見えたら、この水風呂の馬車を飛び降りて駆けこもう。その扉の向こうに、きっと王子さまがいる……!!

そういう算段でいたのだけれど、なぜか全然城に着かない。馬車の中でじっとしたまま、気がついたら隣にねずみみたいなおばあさんがいた。おばあさんの入水により、しんとした水面はじゃばじゃばと撹拌され、魔法もみるみる解けていく。あんなにぴったりだった羽衣のドレスもあっという間に木っ端微塵になってしまって、わたしはやはりすっぱだかである。

過度に期待しすぎていたのだろうか。仕方なく水風呂を出ると多少ゆらゆらした感覚はあったけれど、このくらいシンデレラ根性で歩いているうちに平静を取り戻せてしまうわ。もやもやしたままぺたぺた歩いて露天へと向かった。外に出てすぐ目の前に確かに椅子が3つ並んでいたけれど、継母みたいなおばさん3人組に占領されていた。かわいそうなシンデレラ。お城にもたどり着けなければ椅子にも座れない。行き場をなくしたシンデレラは今にもその場にへたりと座り込んでしまいそうでした。でもその場に座り込んでしまうと目の前で椅子占領中のおばさんたちの腰掛けている位置と目線がちょうど同じ高さくらいになってしまって股を覗きこもうとしている人みたいになるからやめた。

完全に興醒めで露天をうろうろし、寝湯に仰向けになった。サウナもうどうでもいいや、シンデレラごっこもやめよ、あと炭酸泉に入ろう。サウナより、お風呂の方が大事だ。寝湯がとても良い。お湯から出ている膝や、お腹や、頬のあたりを夏の夜風がかすめる。どこかで蝉が鳴いていて、その向こうには大都会の喧騒を感じる。ここはシンデレラの夢と魔法の国ではなく、歓楽街新宿歌舞伎町の夜。わたしはそっと目を閉じて、耳たぶの真下にあるお湯の波打つ気配に意識を任せようとしていた。

その時だった。閉じている目の、上瞼と下瞼の境界線がゆるく曖昧になり、上下それぞれの濡れた睫毛が柔らかく交差しては混ざり合いそうになる感覚を掴んだ。波紋がどんどん、おでこへ、前髪の生え際のあたりへ、つむじのあたり、耳のうしろ、首もとから全身へと広がっていく。

音楽が聞こえる。オーケストラだ。曲に合わせて、人々が踊っている。街のネオンのような色とりどりのドレス、夜の帳のようなタキシード、それらがテンポよくくるくると舞う向こうからひときわ眩しい閃光が放たれて、ああこの向こうにやっぱり王子さまがいるのかも。なんとか目を凝らしてそれを見ようとするけれど、光の粒がものすごい速さでわたしを取り込んでしまって、上も下も、右も左もわからない。手探りができない。もう目を開けられそうだけど開けたくない。渦の中にいる。王子さま、見えないけれど触れているんだ。そう気付いた途端にあの閃光がすう、と引いていって、仰向けに寝転がったわたしの目の前には日よけのパラソルの赤があった。

少しのあいだ呆然としていたが、起き上がって内風呂に戻り、気持ちの整理のためとりあえず炭酸泉に浸かった。ぬるめの炭酸水の泡が身体を包み、しゅわしゅわとくすぐったい。

ととのっていたのだろうなぁ、さっき。たぶん3分くらいのショートトリップだった。水風呂で冷えて縮こまった血管が、寝湯のお湯で急速にほだされたのだろう。なーんだ、ととのったよ。王子さまはいた。今日はもうダメだと思っていたのでエッという感じだ。冷めたり期待したり、やっぱりダメで投げやりな気持ちになったり、なのに結局ととのって、完全に翻弄されている。シンデレラはツンデレな王子に振り回されて踊らされている。でも、もうすっかり好きになっている。夢中になっている。王子さまが生身の男性でなくて本当に良かった。人生が狂ってしまう。

気がつけばサウナ室に舞い戻っていた。テレビではまだケンミンショーがやっていたけれど、先程のようにちょっと引いたところから客観視してしまうことはもうなかった。からだの中で血がさらさらと流れて、変な頭がからだを縛るより先に心がまっすぐな方へ誘われていく。これは精神の解放、みたいな感覚に近くて、これはライブハウスやクラブに行って耳から骨の髄まで染みわたる音楽がありからだがほどけていくかんじにとても近い。時々ほどかないとがんじがらめになる性分だから、このかんじをずっと大切にしたい。

3セット城に通って3回夢を見て、館内の食事処でビールをいただいていたらあっという間に時が過ぎていた。もうちょっとまったりしたいところだったけど、シンデレラの魔法は夜の12時を過ぎたら解けちゃうみたいだし、テルマー湯は夜の12時を過ぎたら深夜料金が加算されるみたいなので後ろ髪ひかれながら楽園を後にした。歌舞伎町はいっそう煌びやかに、夜の人々をどろどろ笑わせている。そんな中をお化粧もせず、お風呂上がりの軽やかさでとことこ歩く帰り道。すこし浮ついて、恋をしたみたいな夏の夜だった。

#サウナ #サ活 #テルマー湯 #エッセイ

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