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高井戸『美しの湯』

スーパーマーケット『オオゼキ』はどこにでもあるスーパーではない。けど特別珍しいわけでもない。東京に暮らしていれば時より目にすることができる。高級スーパーというほど気取らないけど『サミット』や『イオン』よりちょっといいものが売っている。近くになくてもわざわざ行くだけの価値がある。母は『オオゼキ』のそういうところを気に入っていた。

環八沿い、高井戸駅そばに『オオゼキ』はある。我が家では昔から、休日よくそこへ車で買い物に行っていた。母は上機嫌で1〜2週間分の食材を買いだめし、父はフルーツのコーナーで良さそうなものを物色する。わたしは店内をふらふらしながらも、母が棚から商品を選び、買い物カゴに運び入れる手つきを眺めたり、近所のスーパーじゃ見かけない謎のフルーツを父に勧めて流されたりしていた。

一度だけ、買い物のあと近くを流れる神田川沿いで花見をしたことがあった。オオゼキの中にみどり寿司が入ってるのでそこでお寿司を買って。その時母は病気が発覚したばかりで、満開の夜桜を見てはしゃぎながら「あと何回桜が見られるだろう」と言った。「あと何回オオゼキに来れるだろう」とも。オオゼキの隣にある年いきなり温泉が湧いて(長いこと工事してたからいきなりって事はないのだろうけれど)『美しの湯』という温泉施設が出来たので、そこにもみんなで行ってみたいねと話した。

結局、その後オオゼキには何回か行ったけれど、母と花見らしい花見をしたのはあれが最後。『美しの湯』には行かないまま母は亡くなり、それからオオゼキで買い物することはほぼなくなった。

数年経ったのち、たまたまデートで『美しの湯』に行ってみることになった。オープンして何年も経ち、内装から何からリニューアルオープンしたばかりらしかった。それだけに館内は綺麗で、そして混んでいた。母と同じくらいの歳の女のひとがそこにはいきいきと集っていて、わたしは露天風呂で彼女たちを眺めながらぼんやりいろんなことに想いを馳せ、最終的にのぼせて貧血になり脱衣所でへたりと倒れこんでしまった。

その日のことを思い出すと情けなくて目を覆いたくなる。しっかりしなさいよと思う。でもどうすればよかったのよとも思う。こまめに水分補給もしていたし、そこまで長く浸かり続けていたわけでもない。でもだめだった。ものを想いすぎたのだ。でも想わないわけにはいかなかった。どうすればよかったのよ。行かなければよかったのか?

だけど今なら、あのときとるべきだった最善策が手に取るようにわかる。
「水風呂に入れば良かった」
そう、水風呂に入れば良かったのだ。長湯で火照ったからだも、思考が溢れ出してとまらなくなった頭も冷たい水風呂でばしっと引き締めてととのえればよかったのだ。その頃はまだサウナのサの字も知らない若僧で、お風呂屋さんに行ってもサウナと水風呂は自分に関係のないものだと思っていた。入ってみようとも思わなかったし、もはや視界から完全にシャットアウトしていた。なんて愚かな小娘だろう。

サウナと水風呂を覚えてまた一つ大人になったわたしは、どうしてもあの日のリベンジがしたくなって高井戸『美しの湯』を久々に訪れてみることにした。真冬のとある金曜夕方、まあまあ混んでいる。スポーツクラブと提携しているようで、運動後にひとっ風呂浴びて帰るおじさま、おばさまが多いみたい。スタッフの方の制服もどことなくスポーティなスタイルだ。

中はとても広い。内湯には数種類のマッサージバスやジェットバス(このジェットがすごく強くてかなり効く。腰掛けてから壁に寄りかかってほとんど横になったような状態で入れるジェットバスがあるんだけど、手すりに掴まらずにぼんやりしてるとそのままジェット発進しかねない)をはじめ、地下1600mから汲み上げた天然温泉がある。東京近郊のスーパー銭湯などでもよく見る、お湯が琥珀色の温泉だ。こんなところで温泉って湧くんだ、と思ったけど、高井戸っていうくらいだから井戸水的に湧いたのかな。

内湯の湯船を手短にひとしきり堪能した後、前回は存在にすら気付かなかったサウナの扉を開いた。サウナも広く、10人くらいは余裕で入れる。やはりスポーツクラブ仲間で来ているおばさま方が多く、3組くらいのおばさま達がテレビを見ながらおしゃべりを繰り広げている。個人的に、気が散るからサウナのテレビない方がいいな、とすら思い始めていたので、ちょっとうるさく感じた。温度は90度前後。湿度は低め。カラッとしている。熱源はメカメカしいストーブみたいなやつで、ガコンガコンといかつい音が鳴っていてかっこいい。10分間ずっとストーブを眺めていた。

水風呂も広いが混んでいる。水温18〜20度ほど。奥の吐水口から豊かに水が吹き出している他、バイブラもあって常に水が攪拌されているので、温度の割には冷たく感じる。ただ、それがあろうがなかろうがひっきりなしに人が出たり入ったりするのでなかなか羽衣を纏えない。

おばさまたちは水風呂でもよくしゃべる。おたくの猫ちゃんかわいいわよねえ、きれいなグレーの、あの子なんていうの? 種類。嫌ねえ、グレーじゃないのよ。あの子の色はモーヴ。グレーの猫はねずみみたいだから嫌でねえ、あえてモーヴの子にしたのよ、と。猫がねずみっぽいことはないだろう。

パワフルなおばさまたちに打ちのめされてリベンジマッチ1セット目から負け戦感が出てきてしまったけれど、逃げるように出てきた露天スペースは逆転の兆しに満ち溢れていた。大通り沿いの駅近施設なはずなのにその気配のするものは何も見えず、木々に囲まれた広い岩風呂である。どこか遠くの温泉地にでも来たような風情さえある。外気浴でととのうのにぴったりだ。ご親切に休憩用のベンチも2つあったけれど、岩風呂の岩に座ろうと思う。他のお客さんの邪魔にならずちょうど良い大きさの岩をすばやく探し出し、手桶で少しお湯をかけてから腰掛ける。岩風呂の岩には必ずお湯をかけたい。なぜかはわからないけどその気持ちが本能的に備わっている。みんな当たり前にお湯をかけていると思ってたけど、実はそうでもないらしい。(西加奈子さんの『窓の魚』(新潮社)という本には同じようなことをする人が出てくる)冷たく静かで乾いた岩にお湯をかけると、濡れて色の濃くなった岩はちらちらと輝く。結局、あまりととのわないうちに寒くなって湯船に逃げこんでしまったが、湯気を纏った光を眺めながらぼんやりするのはとても気持ちが良い。

露天の岩風呂温泉は上の湯と下の湯があり、上の湯から湯煙と良いお湯の音を立てて下の湯へと注がれている。熱めのお湯が好みなら上の湯、ぬるめにゆっくり浸かりたいなら下の湯、と選ぶことができて親切だ。そして、上の湯と下の湯の間には飛び石が渡されており、渡って行くと「縄文釜風呂」というのがある。

縄文釜風呂。要はスチームサウナのような高湿低温サウナなのだけれど、ここがすごくよかった。茶室のような小さな扉をくぐると中は洞窟のようになっており、6〜7人ほど座れそうなベンチがある。大きなストーブの動くゴトン、ゴトンという音と、水滴がポタッと落ちる音が洞窟の中にひびいて、太古の儀式にでも参加してるような厳かな気持ちになれる。時計もなく、テレビもない。ただ我と向き合うだけの悟りの地。ゆっくり長く入れるので、からだの内側からじっくりと汗を流せている感じがする。あまりに落ち着く空間なのでもういっそこのままここで永遠に己と対峙し続けることも考えたけれど、時が経ちからだの内側からしっかり蒸されてくると「完成! 完成!」という体感に行き着いた。もう無理。はやく氷水で〆めてばっちり仕上がりたい。自分で自分を調理しているみたいだなと思う。蒸し加減は大切だ。

釜風呂を出ると空気がきゅっと冷たかった。全裸、しかも汗でぬれたからだで真冬の外にいるのだから当たり前だが、水風呂で〆る前に瞬間冷凍されてしまいそうだ。でも悪い気はしない。今はその寒ささえ最高のスパイスに思えてよだれが出そうだ。調理は時にレシピ通りにはいかない時もある。場のコンディションを常に感じ取ってベストを尽くすまでだ。

わたしは冷たい鉄板のような石畳の上をぺたぺた歩いて浴室へ戻り、まず熱めのシャワーを浴びて汗を流した。いつもなら冷たいシャワーだが、今日は先に身体を冷やしてしまったので熱いシャワーだ。それから水風呂へ。相変わらずの混雑具合、頭まで潜って謎にゆっくり出てくるおばちゃんがいらっしゃったのですぐ出た。そして再び露天へと出て、先程と同じ岩風呂の岩にお湯をかけ、腰掛ける。深く息を吐くとからだじゅうに深い安らぎが広がり、それと共にからだの中の熱もわあっと散ってわたしの輪郭を包んだ。気付けばわたしはロダンの「考える人」のようなポーズをとりつつ、考えるとか考えないとかではない異次元世界にしばらくいた。水風呂をずいぶん淡白に済ませちゃったけれど、おそらく外気の冷たさによりきちんとクールダウンできたみたいだ。水面にちらつく光のような、浅くも長いととのいを得た。勝った、と思った。からだの奥底から漲るようなパワーが湧いてきて、今なら何だってできるような気がした。貧血に屈して脱衣所になよなよと倒れこんだあの日のわたしは、もう過去のひとだ。

その後高温サウナと縄文釜風呂をもう1セットずつ堪能し、バキバキにととのってから、食堂でお風呂上がりのビールをキメ、オオゼキで1週間分買い物して帰った。そういえば、露天スペースに大きな桜の木があった。桜の季節にまた来よう。

『美しの湯』


アクセス:京王井の頭線 高井戸駅より徒歩約3分
営業時間:9:30〜24:00
定休日:ないっぽい
料金:平日950円、土日祝1200円。
アメニティなど:シャンプー・リンス・ボディーソープ備付。ドライヤー有。化粧水も備付のもの有り。有料レンタルタオル、サウナマット有。ナイロンタオルは貸し出しも販売もない。同敷地内のドラッグストアには売ってる。
サウナ:ドライサウナ→92度。遠赤外線? ストーブ式。サウナマットなし。テレビ有。縄文釜風呂→53度。ストーブ。テレビなし。
水風呂:18度。まあ広め。吐水口あり。水質ふつう。
湯船:内湯武蔵野温泉、ジェットバス数種、水風呂。露天→武蔵野温泉、シルクバスor炭酸泉の日替わり。
外気浴:最高! ベンチ×2ある。
給水器:ある。
富士山:描いてない。
ビール:食堂があり、生ビール売ってる。
ビンのジュース:ある!

※情報は女湯のもの。

写真、両親と高井戸で花見したときの。

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