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言行一致ってむずすぎないか。

大学のとき、私は心理学を勉強していたんだけれど

人が心で感じていることや脳内で考えていることは、得てして行動と違うことがあることを何回も勉強の中で実感したものだった。

認知バイアスというものがあるけれど、直感的な判断が先に来て、それを後から合理的に正当化しようとしたり、(無意識的に)
色々と自分でも思い当たる節があって、学んでいて面白かった。脳科学とかも好きだったし、今も好き。

人の内面は見えない。
だから見えないことをいいことに、いくらでも言動で偽ることはできる。
そしてそれは人間の社会的なサバイバル能力として普通のことだと思う。

例えば、職場の人に少しイラっとしたことを言われたら、
心でなんだこいつ!と反抗したくなったとしても、表情としては笑顔を見せたり、愛想よくふるまったり。

これはたぶん、人間として普通で、悪くない本能だと思う。他の人との関係性を保つために。


その点聖書は内面的な部分に、はちゃめちゃに手厳しい。

心の中で人を馬鹿にしたら、それはその人を殺しているのと一緒。とか
言葉に愛が伴っていなかったら、その言葉は騒々しいシンバルと一緒。とか。

普通、人は、外面的なことをとやかく言われて大きくなる。
マナーとか、敬語とか、メールの文章とか。笑

私は自分をうまく取り繕うのが上手いと思う。
自分を本来の自分以上によく見せるというか、もっと能力があるように、もっと自分をうまくコントロールできているように、もっと善人であるように、見せられる。そのスキルは人生の体験を通して学んできた。

それは正直社会で有効なスキルだと思う。

だけど、
それは自分の人格の成長においては、全く何の役にも立たないスキル
とも同時に思う。

裏表がないとはよく言うけど
裏の自分を、内面の自分を完全に人に見せられる人はいるのかな。

内面を磨く、いやイエスさまの価値観によって磨かれる道のりはまだ長い。
まだ長いけど、その先に待っている自分が楽しみ。

もっと寛容に、もっと親切に、もっと謙遜に、もっと思慮深く、もっと識別力をもって、人と関われるようになりたいな。

もっともっと。こういうことは貪欲に求めていいんだと思う。


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