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私は「普通」が欲しかった

私の(恐らく)最初の記憶は両親の喧嘩の後、父が家出する瞬間のもので、私は母に、父の車に押し込まれているところだった。

後部座席に私を乗せていけと騒ぎ立てる母に対して、父が何と言ったかは覚えていないけど、心底うんざりした顔は目に焼き付いている。

結果として、私は父に乱暴でもなく丁寧でもない力加減で車から降ろされ、去っていく父の車を母と一緒に見送った。

何が嫌って、その日は雨が降っていた。嫌な記憶に更に嫌な演出が乗っている。

今思えば、母は父に出て行ってほしくなくて、私を乗せれば父が思い留まると思ったのだろうと分かる。

しかし当時の私としては、父からも母からも不要の烙印を押された気がして、何とも言えない嫌な気持ちになった。

その後も母と父が喧嘩するたび、出ていった父の携帯電話に電話を掛けるのは私の役目だった。

「ママに言われて電話したって言っちゃだめよ。あなたが帰ってきてほしいから電話したって言ってね。」と言われながら、父に電話するが、父が出ることは稀だった。

その後、私の小学校入学前に両親は離婚した。私は母と一緒に母の実家に戻り、祖父母と4人で暮らした。

慣れない町に慣れない学校。

母によると、私は小学校1年生までは比較的ぼーっとした子供だったらしいが、小学2年生からは別人のようにハキハキと自立し始め、目立つタイプの子供になったという。

入学したばかりの私は、よそ者で友達もおらず、しかも家は片親。どう見ても少し可哀そうな子供だった。

その視線を1年感じ続けた結果、私は片親の自分がバカにされないように、母が嫌な思いをしないように、もっとしっかりしなければ、と思った記憶がある。

その意識のもとに今の私が作られたのだろう。

母は私に多くは期待しなかった。一人っ子の割には。

何かを強制されることも親の夢を託されることもなかった。

ただ、母は私のことを始終信じてくれたし、認めてくれていた。

※もちろん口喧嘩で傷ついたことは多くある(一番傷つく言葉は「そんなにママが嫌なら、パパのところに行きなさい」だった。パパは私を引き取る気なんてさらさら無いことは私にもわかっていた。その言葉はとてつもない孤独を感じさせた。)


そんな私に対して母が言い聞かせた唯一のことは

「普通が一番難しいのよ。普通は凄いの。」だった。

そんな母の言葉を聞いて育った私は、私の思う(母の思う)普通の人生を今手に入れている。


ただ、「普通」をゴールにして、それが叶っている今、もっと別のチャレンジをしたいと思う自分がいる。

自分の欲求に即した目標を立ててみたい。

そこで自分の半生を振り返りながら、自分の欲求を思い出して、次なるゴールを見つけみようと思った。

もちろん、30歳まで普通に生きてきた人間には、大それた何かなど成しえないのかもしれない。次のゴールも見つからないかもしれない。

まぁ、それはそれで私の人生だよな、とも思う。


ただのアラサーの徒然記。お付き合い頂ければ幸いです。

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