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この街のアキナイ

タカハシは、商いアキナイを求めていた。それは、この街ではどんな悩みも解決してくれる商いアキナイと言われていた。

タカハシの悩みは、浅いようで深かった。タカハシは、人が時間を割いて情熱を傾けるような趣味を持ち合わせず毎日が退屈だった。退屈だというのは、人が見ればそう見えるだけでタカハシにとってその平穏はなによりの幸せだった。タカハシは、ずっと流れる川の水の音を聴いたり、毎日少しずつ伸びる植物や、生き物をゆっくりと眺めることが好きだった。

何も起きないことこそがタカハシの幸せだった。

だがタカハシは、会社の同じ部署の女性に恋をした。恋は事前に教わるものでなく、落ちるものだと知っていたのにだ。予期せぬことを最も嫌うタカハシだったのに自ら飛び込むことをした自分を表面上は恥じていた。

きっかけはその女性がタカハシのことを名前で呼んだからだった。タカハシのことを今まで名前で呼ぶような女性は存在したことがなかったからだ。タカハシは恋などとは無縁だったし、タカハシ自身もそんなものに興味がなかったと思うことで心を武装していた。「この鎧を破れるものが現れるなら最強の矛を持ってきてみろ」と誇っていた。

だが、恋とはよく書かれている通り落ちるものだったと言わざるを得なかった。

「ねえ。何度も同じこと言わせないで欲しいの。タカシさん」

彼女は、タカハシの失敗にタカハシと言えずに若干噛み気味でタカシと怒鳴っただけだったのだが、タカハシタカシにとってそれは、自分の名前であるタカシと呼ばれた事実だけがその耳に届き、「タカシ」と言う自分の名前を女性の声で言われる響きがこうも美しいのかと胸を突かれたのだ。後にタカハシは、「あの時は鎧を着てなくて不意打ちだったんだ」と自己弁護をしている。

恋の落とし穴とも言うべき心の穴の奥底に自ら落ちていき、気付いた時には地上は遥か上の上。タカハシは、この時はじめて地上に出る道具を持ち合わせていないことに気付いたのだった。それどころか、無防備で道具を持っていないからしょうがないと諦めを装う心の偽装を施し、恋をしている自分を逃したくもなく、そんな自分を好きになっていたりもしたのだった。

その日からタカハシは、その女性のことが気になっていた。四六時中、女性のことばかりを考えていた。四六時中の上の言葉を知りたいくらい考えていた。

やがてタカハシは、恋を楽しむよりも自分の生活が感情の起伏により、脅かされる毎日に恐怖を感じていた。女性を忘れないと自分が自分でなくなる恐怖を感じはじめていたのだが、それこそが恋に恋する主人公であり、女性を追いかける人生も悪くないとすら考えていたのだった。

タカハシは、馴染みの店に入った。この店を馴染みと考えていたのはタカハシだけだったのかも知れないが、馴染みという言葉をいつか女性のために使いたいと思っていたから日頃から使うようにしていた。

馴染みの店に女性を連れてきたイメージをするために若干隣の椅子を近付け、カウンターに座っていた。その時すぐにいつもと違う違和感を感じていた。店内に仕込みをしているはずの店主も見えず、他の客も見えずに瞬時に誰も居ない空間が出来上がっていた。タカハシはカウンターに座っていたのだが、居るはずのない後ろから何かの気配を感じていた。

「あなたの種。取り出してあげたわ」

店の雰囲気と同化するような薄暗い茶色のワンピースを着込み、軀のラインが何一つ分からないその人物には、声以外に女と判断出来る要素は何もなかった。人物と言ったが、実際に人なのか、女なのかも分からなかった。この時にもう少し軀のラインが出てくれていればこちらも瞬時に判断出来たのにと後にタカハシは考えている。

長い艶がある黒髪に顔が隠れているが、その眼を一瞬でも見れば、視線を離すのは困難に近い眼だった。眼だけで美しいと思わせるのに充分だった。タカハシは、恋とは眼からでも簡単に落ちることが出来るのをこの時初めて知ることになった。

そして一度でも恋に落ちたことがある人間は、すぐに他にも恋に落ちることが出来るのかと自分にびっくりしていた。タカハシは、自分が浮気するタイプなのかも知れないと不安になった。

「私、悩みの種を吸いとれるのよ。これがあなたの悩みの種よ」

タカハシは、朝顔の種に似た小さな黒い種をいつの間にか握っていた。いつ手に渡されたかも分からず、握っているということは手が触れたはずだと思っていたが、その事実も感触も見逃してしまった自分に腹が立っていた。

「必ず植えること。あなたの望みはそれで叶うわ」

女の眼は、少し笑いながらもタカハシを見据えたままだった。

「私はアキナイ。あなたが求めてた。この街のアキナイよ。その種の花を咲かせなさい。そして種が出来たら私に渡すの。それで全て解決して元通りの生活よ」

アキナイの声はタカハシの軀に染み込むように伝わった。タカハシは、アキナイの染み込むような声に軀と一体になった錯覚を覚えたが、それは文字通り本当に錯覚だった。

タカハシが正気を取り戻した時には、店内は活気に溢れていて手に種だけを持っていた。タカハシは、生まれて初めて自己紹介された瞬間に居なくなった女を感じたのだが、種は事実でタカハシが探していた商いアキナイがこの街に実在していて、尚且つ一瞬で浮気してしまいそうなくらいキレイだったのをどこか喜んでいた。

だが、これでタカハシの悩みは解決するとタカハシは安堵した。

タカハシは、あれが商い─アキナイ─だと理解し、悩みの解決のために家に帰るとすぐに植木鉢に種を植えた。タカハシは、小さな植木鉢を家に置きっぱなしにするのは気が引けて会社のデスクに置いた。というよりも、あの日会ったアキナイと会社の女性を同時に見ることで浮気している自分を感じたかった。

そして、なぜだか会社のデスクに置いてある植木鉢をタカハシに注意する人はいなかったのだ。

ある日、タカハシは植木鉢の土がいつも湿っていることに気がついた。誰が水やりをしたか調べるためにタカハシは、朝早く会社に出社した。

水をあげていたのは、タカハシが好きな女性だった。タカハシは浮気がバレた男の気持ちを初めて理解したくらい動揺したのだが、女性は意外なことをタカハシに告げた。

「私植物好きなのよ。この植物にどんな花が咲くのか気になるの」

「それは、浮気を容認する寛大なタイプなのですか?」と思わずタカハシは、言いたくなったのだが、そんなことを女性に直接言うタカハシではなかった。だが、頭の中ではこの日からずっと浮気容認派の寛大な女性としてのイメージが形成されていくことになる。

それ以来、タカハシは毎朝少しだけ早く出社して女性が水をあげる時に少しずつ会話をした。女性と話せる。それだけで信じられなかったのにその女性は、もう一人の好きな女性を容認し、さらには仲良くなろうとしている。信じられなかったのだが、毎朝の日課は、タカハシと女性にとって現実の距離を近付ける秘密の作業になっていた。

やがて秘密の花が咲き、その花から多くの種が取れた。そして二人は現実に仲良くなった。タカハシは種のことを考えていた。女性にアキナイのことを話した。自分の前に悩みを解決してくれるアキナイが現れたこと、それはもう「恋に悩みたくない」と願っていたこと。だからきっと女性との恋が上手くいくために現れたのだと思うことを話した。

そして本心から「君を失うならば、この種をアキナイには渡したくない」と女性に告げた。浮気心なんてとっくに無くなっていた。恋から愛へ変換する時だとタカハシは考えていた。女性を初めて愛していたのだ。

女性は、タカハシから種を受け取り微笑みながら優しくこう言った。

「恋の悩みの種は、しっかり増えたみたいね」

女性は、アキナイに姿を変えた。タカハシは、意味が分からなかった。同じ二人だったなら最初から二人愛せば良かったと訳の分からない考えに至るくらい意味が分からなかった。だがアキナイはそんなタカハシにはお構い無く話を続けた。

「種が出来たら渡す約束してたじゃない。私の商いは、悩みの種を増やすことなの。今月は、恋の悩みだったの。増やせたから、今度はあなたの望みも叶えるわ。恋の悩みはおしまい。私の記憶はなくなるから大丈夫よ」

アキナイは消え、タカハシにはお望み通り元の平穏な生活が戻った。

アキナイは、種を上司のもとに届けた。

「こんな割に合わない仕事嫌です」

上司は、諭すようにアキナイに告げた。

「最初は、皆下積みだ。最初から大きな悩みを担当してもお前は、まだ花を咲かせられない。悩みの種は小さいことから解決して、種を増やしてまた人間に与えるんだ。悩みがないとどうして良いのか分からないのが人間だろ」

 アキナイは、上司にため息を吐きながらこう言った。

「だとしても、悩みの種が育ちそうな人間に一つ与えて、それを育てさせて、花を咲かせて少しずつ種を増やし、百個にしてノルマ達成って。いつ神になれるんですか?ほんとに割に合わないです」

上司は嗤いながらこう告げた。

「人間の方がずっと割に合わないことをしてるじゃないか」と。


前に作った創作をよろしければお読みください。別サイトに出したりしてましたが、この「アキナイ」をシリーズにして創作大賞に今年エントリーしても面白いかなと考えていた時もありました。それは今年ではないみたいです。今は目の前の「なんのはなしですか」に集中したいと思います。それと、明日からキャンプなのです。もし、十七通目が遅れても許してね。携帯の電波ないかも知れません。雨でも行くのよ。トレーラーハウスだから。プロ家族に連れられて何もしなくて良いのよ。蟲を探してるだけで良いのよ。二年前の記事置いておくわ。コメントしてくれようと感想くれようとしてくれる「おかしな」人がいたら返信はかなり遅れると思うとお伝えしておくわ。いつも一緒に楽しんでくれて、ありがとうございます。

あとがきに寄せて
言い訳を語る


自分に何が書けるか、何を求めているか、探している途中ですが、サポートいただいたお気持ちは、忘れずに活かしたいと思っています。