萌え袖のほどき方
「この人は、私のことが一番好きなのよ。それは分かるのよ」
彼女が酔い出した。私とポップと、もう一人の同級生の女性は、この言葉を待っていた。高校の時にポップと付き合っていたという彼女は、私達と呑むと必ずこの言葉を発する。それは私達からしたら、はじまりの合図みたいな言葉だ。
私は、この言葉を聞くのが嫌いではない。一番好きかどうかなんて知らないが、私達が高校を卒業してからもう二十年以上だ。それなのに、こうしてお酒を交わしながら、彼女の中の事実を私達に伝えてくる。
同級生の女性が、私達に目配せをする。「その大きな瞳はどこからきたんだい?」と聞きたくなるような瞳だ。大きな瞳は、表情を作るよりも感情を訴えてくる。とても楽しそうだった。ポップは、自分のステージが訪れたというように、この日一番の掠れ声を張る。
「で、俺達は何ヵ月付き合ったんだっけ?」
彼女が笑顔で応える。
「二ヶ月」
四十数年私達は生きてきて、色々な経験をしてきた。大きな波や小さな波ばかりで、漂流こそせずに、全く波を乗りこなせないままで浮いている。それでも、この「二ヶ月」を大事にしている人がいる。
その「二ヶ月」が、どれだけの「二ヶ月」なのかは知りもしないが、二十年以上経過しても笑い合えるのだから最高の「二ヶ月」に、二十年時間をかけてなったのではないかと考える。
「娘が萌え袖しててね」
急に話が変わる彼女に相槌を打ちながら、私は尋ねた。
「萌え袖って何?」
同級生の女性が、萌え袖をしてみせてくれた。指先だけが、袖から見えている。話題はすぐに萌え袖から変化したのだが、私の頭の中はそうはいかなかった。これは酔ってるからなのか、萌え袖効果なのかは誰かに問いたい。
「そういえばあなたたち、私達と呑む以外の時は、すごくテンションが高いらしいわね」
いつの話なのか分からないほど、テンション高い夜ばかりなので返事に困った。
ポップは冷静に応えていた。
「二人は、俺達の本当の姿を知らないだけだよ」
この瞬間、私の頭に浮かんだのは、萌え袖のかなりタイプの女性だった。目の前に座っている。萌え袖のセーターは、下半身も隠しているため下に何を履いているのか、履いていないのかは私には分からない。仮に分かる時がくるなら、それは口説くことに成功した時だと理解していた。ご褒美かも知れない。
萌え袖から少し、指が見えている。その指は、キレイなネイルが施され、袖を持つのもままならないようなぎこちなさだった。爪は自前のものだろうか。つけ爪だろうか。そこまで不自然な自然さではない。指先は、声をかけられるのを当たり前と思っているように訴えてくる。誘惑に負けて「私が代わりに持っててあげるよ」と指に触れながら言いたくなるくらいだ。
私は、この指をキレイだと判断したのだが、すぐに本当にキレイなのだろうかと不安になった。ネイルの色が映えるくらい白々としている指先は、たしかにキレイだ。そのまま触れたら、その指はいずれ私の手から腕、私のカラダへと少し赤身を帯びて沿わせてくれるかもしれない。
だけど何も知らない指にも見えた。
この指を本当に好きになれのるか気になった。この指は私だけを純粋に求めてるのだろうか。何も知らない善悪ではない純真さを突き付けられている気がする。せめて、想像の世界ならば全て私だけのものにしたい。そして、もっと知っている指がいい。
私はもう一度違う指先を想像した。ネイルもしていない、年齢を感じる指だった。だけど、指先まで見られることを知っている指だった。キレイに飾るよりも、吸い込まれる。どこに吸い込まれるのかは分からない。萌え袖からは、第一間接までしか見えないからだ。
ただ、見られることを知っている指先は、萌え袖の下でどう動いているのか、どう意思を伝えようとしているのか、私に向けて明確に想像しろと訴えかけてきていた。
萌え袖に一本のほつれた糸を見つけた。必然な糸なのだろう。試されている。私は、この糸を真剣にほどくことにした。隠されているものを見たい好奇心には勝てない。私と向き合うかなりタイプの女性は、萌え袖を私に預けながら、伏し目がちに一部始終を見ている。口元はもしかしたら心を許しそうな笑みだったかも知れないが、そんなことに気づく余裕が私にあるならば、始めからほどくような選択などしないだろう。何も気付かず遠回りが私の人生だ。
細い糸を切らないように、慎重にほどく。キレイに編み込んである。切ってしまったらおそらくこのかなりタイプの女性は居なくなるだろう。どれくらいの時間をかけてセーターになったのか、私は、このキレイに作られてきた時間の壁に立ち向かわなければならない。ほどいた先の本当の姿を見たくなっていた。
「どっちが本当の姿かしら?」
ポップは、問い詰められていた。
「それは、誰にだって分からないよ」
分からない。分からないと応えているポップを見ながら、私の頭の中にいる萌え袖のかなりタイプの女性の糸はもうすぐ、その全てを見れそうだった。
セーターの形をしていた萌え袖は、私が慎重に全てをほどいて、彼女自身の本当の姿に確実に近付いていた。時間をかけて、丁寧にほどいた分だけ近付けるものだと思っていた。
私は、萌え袖をほどききった。
現れた手はキレイだった。思いっきり手のひらを開くのではなく、少し力を抜き、何かを握るような造形で、自らの手に陰影をつけていた。暗がりから望む明るい指先は全て知っていそうだった。隠していたものには、傷がいっぱい存在していた。傷を隠せないほど傷ついてきたのかも知れない。だけど、そこに到達したのは全てをほどいた自分しかいないだろうと、それを誇るには充分な手だった。
「何が隠されているかなんて、誰も知らないだろ。だから本当の姿なんて分からない」
ポップは饒舌だ。たった今その横で、その隠されている全てを頭の中で見たばかりだ。時間をかけてほどけば、その人の本当の姿には、辿りつけると教えたかった。
頭の中の、かなりタイプの女性は、萌え袖から露になった手を見て、私に微笑んだ。もう一度指を隠したかったのか、無い袖を伸ばして、指先を隠すようにしてその手を下に降ろした。
袖口から、隠されていたシルバーのブレスレットが自然と落ちてきた。滑っていたブレスレットは手首で止まることを当然とし、そしてそれはとても、その手には似合っていた。
ふさわしかった。
そのブレスレットにより、傷を隠し、癒し、そしてさらに輝くことを知っている手だった。きっとそれは誰かの手により、ほどかれ与えられていることを意味していた。その手にブレスレットが存在するのが自然だった。美しかった。
かなりタイプの女性は、このブレスレットをどうして手に入れたのか。そして、どうやって外すのか。外すことなど出来るのか。
私には手に負えそうになかった。さらにもう一段高い、本物のキレイな笑みを見せてくれた女性の深さを知った。
「やっぱりお前の言う通りだ」
私はポップに相槌をしながら、ハイボールを勢いよく含み、今後はうわべだけで女性を好きになれば良いと思った。
真実とは、自分が知りたいところまでで良いのかも知れない。
本当の姿など誰にも何も分からない。
なんのはなしですか
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ワケ分からない楽しさをすでにありがとう。
persi主催の路地裏フェスのスタエフ出ます。今年お疲れ様ということで回収最終日に進捗なども含め、今年何があったかお話します。一緒に話せる方ぜひ。よくやったよ。