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犯罪者って生き物は存在するのか。



 まずはじめに断っておく。あたいはいかなる犯罪行為を容認しない。



 この記事では、あたいが出会った3人の犯罪者について書こうと思う。


 あたいは有難いことに人生でいろんな方々と出会った。その中には前科がある人や、少年院にいたことがある子もいた。彼らともたくさん話したし、仕事やプライベートと様々な形で関わった。自分の前科を自ら自慢げに語る人もいれば、他人からそれを勝手に聞かされることもあった。そして長い時間をかけて築いた信頼関係の上で打ち明けてくれた子もいた。

 もちろん、あたいは彼らが前科者だから興味本位で近づいて話を聞いたわけではない。そのほとんどが前科を持っている人間だとは知らずに始めた人間関係だった。ましてやそれを知ったからといって、彼らの過去に無関係なあたいが嫌悪感を示して断罪するわけでもない。
 
 ただ“話をしてくれた人が前科のある人間だった“、という認識で、それ以上でもそれ以下でもないスタンスで相手の経歴を受け取っていた。

 また、ことさら仲良くなることを社会家貢献だとか、話を聞き出すことがセラピーや再発予防に繋がるだとかおこがましいことを考えならがら彼らの話を聞いたわけでもない。ただ黙って聞いた。一個人の間柄として何も言わないことに努めた。
 
 そして「過去は過去だから。償ったならもういいじゃん」だとか言って耳を塞いで、相手の口も塞いで、告白を些末なことだと切り捨てて、彼らの地続きの人生から目を背けたわけでもない。

 彼らが切り離せない過去を背負いながら生きている。その事実を受け止めて接した。そしてその時彼らを「犯罪者」ではなく「前科者」として捉えて向かい合った。


 でも今回の記事では、そんな彼らの話を書こうとは思わない。

 たとえば、劇中への出演に許可を得られないほど遠くに行ってしまったり、連絡が一切つかなくなってしまった他人のことでも、それが捨てられない大事な過去で、あたいの人生に深く関わったことならばエッセイに描くことがある。描かなければあたいのエッセイが完成しないと迫られるほど大きなものならそれは避けようと思えない。あたいの母ちゃんや、初恋の先生のことなどはまさしくそういった事情から勝手に描かせてもらった人物だろう。

 そんな風にエッセイとは無断で他者を描くことができる性質上、ものすごくエゴイスティックなことも内包している危うい媒体にもなりうると感じている。だから筆者の立場として細心の注意を払って筆を取りたいし、エッセイニストに対する批判は甘んじて受け止めたい。「他人を勝手に描いて金稼いでんじゃねーよ」という批判があれば「確かにせやな……」と受け入れる。

 ただ、言い訳がましいけれど、無断で誰かを描写するとき、あたいは本人が「これ自分のことかも。すごく似てる」とうっすら分かるくらいには情報を抽出して、そして薄めたり、混ぜたり、解釈して書き出していることもある。

 ゲイ風俗内部やゲイバーで交流した、おそらくもう出会うことの無い人々の会話や情報の多くは、そんな風にちょろまかしている。あたいはそこそこ嘘つきなので平気に情報を攪拌して「エッセイなのにフェイクを入れるな」と批判されても心が痛まない。それで実際の人間の尊厳が守れるならなおさら平気の美しいアラサーなのだ。

 だけど、いくらそんな風に細心の注意を払っても、前科を許可無くは描けない。なぜならそれがあたいの知らない被害者が関わっていることだからだ。

 さらにその事実に関してフェイクを入れれば本質までも変わる。なので今回あたいは前科者のことをエッセイでは書こうとは思わない。今後もたぶん基本的には思わないので彼らに許可すら求めないと思う。


 今から書き出すのは「出会った時は相手が犯罪者だという認識がなかったけれど、その時にはすでに犯罪を犯していて、そして何食わぬ顔であたいの目の前にいた」という、そういうタイプの出来事の話。


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ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…

今ならあたいの投げキッス付きよ👄