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他人に花束をあげる意味。


 あたいは花があんまり好きじゃなかった。

 どんなに綺麗な花も、花ってだけで好かんかった。

 唯一好きだった花は、刺身の上に乗ってるタンポポ🌼

 刺身という生モノの上に寝かされたその無垢で純潔な花弁は、もはやすけべな芸術と言っても過言では無い。とってもすけべだ。もう好きすぎてお魚といっしょに食べちゃう。あたいはね、そんな人間なの。皿の上に乗ってるやつは全部食うの。

 (ちなみに実際はタンポポじゃなく食用菊だそうです。残念🙍‍♀️)


 そんなおちゃめで偏屈で美しいあたいだが、いまは花全般が好きになった。人からもらった花や、視界に入ったいろんな花をみんな愛しく思う。花粉症でも無いからスギ花粉ですら愛おしい。

 とりわけ、アサガオや金木犀のような街中で季節を感じられる花が好きだ。

 そのとき旬の花を見つけると、季節感を強く実感する。そして花の色や香りに触れるたびに、記憶に眠る季節の食べ物を想起させてくれるので、だんだんとお腹が減ってくる。その瞬間が好きだ。アサガオ見てると焼きとうもろこしが食いたくなる。

 それにそもそもあいつら自身がなんか美味しそうだしね。アサガオとか醤油つけて食いたいよな。浅漬けにしても美味そうだわ。酒飲みながら食いてぇ。



 話は戻るけど、なんで昔は花が苦手だったかと言うと、見てると何だか無性に悲しくなってくるからだった。

 花は、地面や根を離れて花瓶に飾られることができる。それが簡単にできちゃうから忘れがちだけど、花弁が《咲いている》ということは《生きている》ということなので、いつかは《枯れて》そして《死ぬ》。

 そんな生き物である生花が枯れて、つまり花弁が茶色く変色する瞬間。

 それがなんかめっちゃわびしくて見てるだけで気が滅入ったから、だから花が苦手だった。そんな理由があったから枯れづらいサボテンや多肉植物だけは昔から好きだったのかもしれない。


 ましてや花なんてものは、非情なことに、花瓶にまだ飾っていられる内から「あと何日で枯れるのかな」なんて考えられたりする虚しい側面を持つ。

 また、人の絶頂や、物事の栄華などに対しても「今のうちが華だ」なんて言われるように、花が咲き誇り、枯れるまでの顛末が短い命の喩えに使われたりもする。

 それはきっとほとんどの人が《花の枯れる瞬間》ーー命が尽きる瞬間にほとほと嫌気が差しているからなんだと、あたいは子どもながらに感じていた。

 きっとたくさんの人が、花瓶に挿された花を見ながら、その花の死んだ姿とそれをゴミ箱に捨てる時のことを想像して虚しさを覚えている。だから花の散り方が虚しい終焉の共通認識となって、慣用句とかになったんだろう。

 そこには、目の前に元気な花があったとしても《終わり》というものを意識してしまう後ろめたさとか、盛者必衰のような虚しさがある。多分そういうものが子どもの頃のあたいは好きじゃなかったんだな。

 それはまるで、美味しいものを食べている最中から、それを食べ終わる瞬間を想像して寂しく感じるようなぺシメスティック(悲観主義)と、根底の部分は同じなのかもしれない。

 つまり目の前の純粋な楽しみを享受するのが下手だったのだ。悲しい未来ばかりが先行して、目の前の現実を濁してしまうせいで。



 でもだからと言って、いつまでも飾り続けることのできるドライフラワーも昔は好きじゃなかった。(今は好きよ❤️)

 その見かけだけの作られた生命力と鮮度に対して、子どもの時分はある種の不気味さを覚えていたし、笑顔が貼り付いてるだけで目が笑っていない営業スマイルを見ているみたいで萎えた。ドライフラワーも造花も大人の表面の部分のようで、大人を信用できない子どもの頃のあたいは特に苦手だった。


 しかしそれも、大人になってから変わった。

 いまは生花もドライフラワーも……あと、声も顔も不器用なとこも、全部全部 嫌いじゃないの〜♪ (♬ドライフラワー/優里)


 それはゲイバーで働いてる時に、一人のお客様が《他人に花束を送る理由》を持論で語ってくれたからだ。

 あたいはその持論をとっても気に入ってるので、ここで書き記してみんなに布教したい。

 別に参考にも賞賛もしなくていいけど、ただ読んで「いろんな奴がいるんだな」って思って貰えたら幸甚。

 ではタンポポ食べながら書いていきます。


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ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…

今ならあたいの投げキッス付きよ👄