サイコロシアン・ルーレット #5
クアドンの仄暗い歓楽街。その一角にある高級レストラン『ムーンブリッジ』は、そこで働くだけでも羨望の目で見られる、本当に特別な祝い事に使われる格式高い店だ。だが、その地下には地元の警察が100年近くにわたり『発見できなかった』特別な部屋、会合の間がある。
ここでは何が起ころうと、何を売り買いしようと、決して咎められることはない。金糸が薄っすら織り込まれた絨毯に散らばる黒ずみは、この部屋が辿ってきた歴史をそれとなく伝えている。
エリックもまた、その歴史をおぼろげながら知っていた。だがそれを真に理解したのは、彼の『対戦相手』だった甥っ子ティムの脳が絨毯にぶち撒けられた後だった。先鋒を買って出た勇気はいとも簡単に吹き飛び、そして、今、震えが、止まらなかった。
「ついてませんね、彼。もうほぼお終いですよ」
ミハエルはすでに、命を落とした……落とさせた部下を一瞥すらしようとしなかった。彼は『4』の目を指差し、敵を楽しそうに嘲笑った。
「なかなか良い目が出たじゃねぇか」
一方、ゴルデルは不敵に微笑んだ。ミハエルは蔑むような視線を向けた。
「良い目? 2/3で即死する出目がですか?」
「そんな数字に意味は……」
「それは……」
エリックには、2人のやりとりが遠い世界のことのように聞こえていた。確率は66%。当たりを引けば即死。天秤の片側、そこに乗せられたものの無限大の重さに見合った、無限大の恐怖が生み出されていく。視界が黒く染まりはじめる。無為な逃避のために、意識が遮られようとする。
(駄目だ!)
エリックは纏わり付く絶望を打ち払うかのように叫んだ。声帯は震えて動かない。その声は彼の心の中にしか響かない。それでも己を奮い立たせようとする。
(俺はファミリーの一員だ。今度こそ、戦うべき時に戦うんだ……!)
前日のやり取りを思い起こす。なけなしのプライドを振り絞り、先鋒を買って出た時のことを。柄に合わないことを言う俺を、みんな意外そうに見て止めようとした。だが結局、その意志を尊重し、認めてくれたじゃないか。
視界がわずかに復帰する。手元だけが映し出される。彼は震える手を銃に伸ばす。死にたくない。普段よりもずっと重い。弾丸ケースの中、黒いスポンジ状の保護材に埋まった弾丸を4つ取り出す。嫌だ。だが背中に仲間の視線を感じる。裏切りたくない。後輩も出来たんだ。今までの俺じゃいられない。
会計役の立場に甘んじ、仲間より一列後ろで待機するのはもう嫌だった。それでもいざ危険が迫ると臆病な体は勝手に隠れてしまう。だから勇気を出したんじゃないか。逃げられない状況に自分を追い込むために。でも……
「エリック」
無音の世界を力強い声が割った。視界が完全に復帰する。厳かで力強い親父の声だけが聞こえる。
「俺たちは昨日、お前の勇気を見た。単なるカッコつけじゃねえ。お前の中から出た、本物の勇気をな」
雑音は飛んでいた。己の心の声すら聞こえぬ集中の中、親父の言葉だけが心に染み入った。ゴルデルは静かに、だがはっきりと言った。
「お前は、俺の自慢の息子だ」
……エリックは振り返らなかった。4つの弾丸を危うげなく弾倉に込め、カラカラと回した。そして迷いなく、銃口をこめかみに突きつけた。
(エリック兄さん)
キムは祈るように見守った。彼だけではない。その場のほぼ全員が、固唾を呑んで彼を見つめていた。前方から注がれる侮蔑と哀れみの入り混じった視線に、エリックは父のように不敵な笑みで答えた。
そしてゆっくりと、引き金を引いた。
ガァン!
破裂音が空気をビリビリと震わせた。エリックの瞳孔が大きく見開かれた。その瞬間、既に彼の意識はなかった。命を失った体が椅子ごとゆっくりと後ろに倒れていく。床に転がっていた甥っ子と一瞬うつろな視線が交差する。こめかみを貫通した弾丸は脳漿と血液のドレスを纏い、壁に衝突。地に落ちてカラカラと乾いた音を鳴らした。
一拍遅れ、エリックの体が絨毯に叩きつけられ、ドチャリと大きな音を立てた。右に傾いた頭から倒れた水差しのように、ドロドロとした液体が溢れ出した。
「うっ……!」
誰かが呻いた。涙か、悲鳴か。あるいはその両方か。次にティムやエリックになるのが自分でない保証など、一片たりとも存在しないのだから。
キムは涙を堪えた。アイシャは目を閉じ冥福を祈った。ラルフは彼の口元を見て心の中で彼を讃えた。ヴィーコは殺意を湛えた目を後輩の仇へと叩きつけていた。
「……ついてねェな、エリック」
ゴルデルは目を閉じ、静かに彼を想った。その口元がわずかに震えた。
それは誇りとなり、乾いた大地に穴を穿ち、泉に創作エネルギーとかが湧く……そんな言い伝えがあります。