サイコロシアン・ルーレット #3
エリックは視線をわずかに彷徨わせると、3日は伸ばしっぱなしの無精髭を撫で、ぎこちなく微笑んだ。
「あ、朝から災難、だ、だったね。うん。ほら。その……座んなよ」
チラチラとノートパソコンに目を落としながら、エリックは後輩を招く。キムが彼のそばに座る。先輩は口を開こうとする。だが言葉は出てこない。
「……?」
半端な沈黙が続く中、エリックが口をもごもごさせる音が響く。キムはなるべく注視しない程度に視線を向けた。こういう時は大抵、言いたいことがある時だ。
「……その。駄目だよ」
エリックはようやく言った。
「はぁ」
「ええと、ほら。キム君、遅刻は良くないよ」
「そうですね」
キムは相槌を打つ。間違いは訂正しない。ショックを受けるからだ。だがエリックは自分で気付いたのか、慌てて続けた。
「あ、いや、遅刻は……してないのか。でも、その……駄目なんだ」
「……?」
要領を得ない言葉にキムは首を傾げる。新聞を下げたヴィーコと、掛け時計を壊したアイシャが彼らのやりとりを見守る。エリックは最大限にシリアスな顔を作り、後輩に言った。
「その……キム君は一番後輩なんだから。や、やる気を見せるんだ。一番に来て。それじゃないと駄」
「ブフッ!」
アイシャが吹き出した。エリックは目を丸くして振り返る。
「あ、姐、姐さん?」
「クク……アンタがそれを言うのかい!」
「い、今、俺は先輩の威厳を……」
「その威厳とやらは、アイシャの借りものか?」
ヴィーコが静かに言った。
「い、いや、兄貴。俺はただ……」
「気付いていないようだな……お前のさっきの言葉、直前にアイシャが言っていたのと丸切り同じだったぞ」
「えっ? ……ぁあっ!」
エリックは仰天した。アイシャはツボを押されたのか、ますます笑いを深めた。ヴィーコはやれやれとため息をつき、キムが3人の間に忙しなく視線を彷徨わせる。
「先輩らしく振る舞いたい、その気持ちは分かる。俺にもそういう時分があったからな。だが、それはもう少し落ち着きを得てからにしろ。無用な恥を掻くぞ」
「す、すみ、すみません兄貴……!」
エリックは平謝りした。アイシャは笑い転げ、ついに咽せ、キムに背中をさすられていた。最年長者は彼女を横目で見た。
「アイシャ、お前もだ。偉そうに言う前に少しは落ち着きを見せろ」
「く、クク……ハァ、いいじゃないですか……クフッ、仕事の時はちゃんと冷静なんですから……!」
息も絶え絶えにアイシャは言った。
「やれやれ……口の減らん奴だ」
三者三様に忙しない後輩たちを見て、ヴィーコはため息をついた。今回この4人に、同期のラルフを加えた5人が呼び出されたのは、ボスから重要な話があると言いつかってのこと。こんな調子で大丈夫なのだろうか。ラルフの奴もまだ来ていない。弛んでいる。
……少し気合いを入れておいてやるか。彼はゆっくりと立ち上がり、口を開こうとした。アイシャの笑い声がピタリと止んだ。
「おい、お前たち……」
その時ドアが開き、短い金髪の男が入ってきた。ラルフだ。
「おはよう、皆」
後輩3人が立ち上がり、礼を返す。ラルフは頷き、なぜか立ち上がっている同期を見た。
「……お前まで立って挨拶しなくてもいいんだぞ?」
「ああ、そうだな。……お前の間の悪さは治らんな」
「?」
ラルフは首を傾げ、コートをラックに掛けた。鍛え上げられた筋肉は灰色のワイシャツの上からも顕だ。
「で、ボスが直々にか。何の話なんだろうな?」
彼はヴィーコの対面に座った。遅れてきたことは誰も咎めない。彼はボスに最も近いところにおり、他の『家族』と共有しづらい秘密を多々持っている。それゆえ少々の失態は斟酌され、いちいち事情を尋ねられることはないのだ。
「さあな。キム、お前は心当たりがありそうだが」
「ま、まあ。それはその。すみません」
キムは目を伏せた。先日の抗争で縫うことになったまぶたが痛んだ。彼はそれを勲章と捉えてもいたが、それでも痛いものは痛い。
「キムはそうかもですけど、アタシは心当たり無いですよ?」
アイシャが不思議そうに言った。エリックが無言で頷き追従する。
「そうだな。それに例の件なら少なくともお前とエリック、それにラルフは関係ないか」
「ああ、そうかもな」
ラルフが頷いた。ヴィーコは聞き咎めた。
「……歯切れが悪いな?」
ラルフは心の中で苦笑する。付き合いが長いとこういう時に敏感だ。
「気のせいだろ。まあ……」
「車の音」
唐突にアイシャが言った。瞬間、3人の目に剣呑な光が宿った。
「誰のだ」
「ボスのと同じ。たぶん4台目です。一応警戒しとかないと」
アイシャの手にはいつの間にか銃が握られていた。エンジン音が徐々に近づき、4人の耳にも微かに聞こえ始めた。エリックは杞憂を祈りながら、震える手で銃を構え、ソファの影に隠れた。
やがて車は停車。ドアの開く音。微かに聞こえる声。アイシャがハンドサインで安全を示した。警戒態勢が解かれた数十秒後、リビングのドアが開いた。
「おはよう、我が子らよ」
長身の老人は中折れ帽を取り、『子供たち』に和やかに声を掛けた。タリエイ・ゴルデル。クアドンの町を代々支配する『ゴルデル・ファミリー』の長。顔の皺からは既に老齢であることが窺えるが、ピンと伸ばした背筋と、トレンチコートを着こなす姿は、衰えをいささかも感じさせない。
「おはよう、親父」「おはよう」
ヴィーコとラルフが一礼し、他もそれに倣う。親父。その呼び名はゴルデル自身が己の部下に、つまりは子供たちに呼ばせているものだ。当然キムのような新入りは『親父』の権威とその呼称のギャップに戸惑うが、彼らのような幹部級ともなればこうして--実の家族のように--フランクに話すことすらできる。
……そして、その声に違和感を覚えることも。
「今日はお前たちに大切な話がある」
ゴルデルは厳かに言った。ヴィーコはその声に言い知れぬ不安を覚えた。
それは誇りとなり、乾いた大地に穴を穿ち、泉に創作エネルギーとかが湧く……そんな言い伝えがあります。