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中止と失敗

H3打ち上げ中止

昨日(2023.2.17)JAXAの次世代主力ロケットH3の打ち上げが主エンジンの点火後、何らかの異常が検知されて補助ブースターへの着火信号が送出されず、結果として打ち上げは中止になった。楽しみにしていたので大変残念。私は、小学生の頃、E.E.スミスのレンズマンシリーズとスカイラークシリーズの大ファンで、卒業作文で宇宙船の船長になりたいと書いたくらい宇宙大好きなので、理系的営みからは数万光年離れてしまった現在においてもJAXAの活動は応援している。今回の件についても、しっかりと異常原因の究明をして、もし重大な異常でなければ、打ち上げウィンドウ(打ち上げ可能な期間)が3月上旬まであると思うので、その期間内の打ち上げ成功を期待したい。

記者会見の模様

さて、本件に関するJAXAの責任者(岡田プロジェクトマネージャー、以下岡田Pとする)の記者会見における共同通信の記者(以下、A記者とする)との質疑がちょっとした話題になっている。会見模様を読んで私も気になる点があった。他人ごとではなく自分でもやらかしそうな点もあるので、自戒の意味も込めて書いておくことにする。
 岡田PとA記者のやりとりは、要約すると概ね以下のとおりである。。

(A記者)中止と失敗という問題についてもう一度確認したい。ちょっともやもやするので。中止という言葉は、一般に意図的に止める、計画を途中で意図してやめる時に中止という。正体不明の異常が起きて、システムが正常に作動して止まったのかもしれないが、意図しない異常による中断、中止ということだった。意図的ではなく止まったということは一般にいう失敗ではないかと思うがどうか?
(岡田P)こういった事象が時々ロケットにはあるが、それを失敗と言ったことがない。
(A記者)みなさんの中では失敗と捉えていないが、失敗と呼ばれてしまうことも甘受せざるを得ない状況ではないか。どうか?
(岡田P)どのような解釈をされるのかは、受け止めた方、受け止められ方はもちろんあると思うので、そうではないとは言い難いが、ロケットというものは基本安全に止まる状態でいつも設計しているので、その設計の範囲の中で止まっている、つまり意図しないというのはその設計の範囲を超えた状態になることは大変なことになると思うが、ある種想定している中の話なので、そこに照らし合わせると失敗とは言い難い。
(A記者)確認だが、システムで対応できる範囲の異常だったけれども、考えていなかった異常が起きて打ち上げが止まったということですね。
(岡田P)ある種の異常を検知したら止まるようなシステムの中で、安全、健全に止まっているのが今の状況。
(A記者)それは一般に失敗といいます。ありがとうございます。

中止/失敗はレイヤが違う

A記者の最初の質問は、まとめると「意図しないで止まったのだから中止ではなく失敗ではないか」というもの。まずここが少しおかしい。「中止」と「失敗」は別のレイヤであり、論理的には①中止であり失敗、②中止であり失敗ではない、③中止ではなく失敗、④中止ではなく失敗ではない、の4通りが考えられるはず。岡田Pは②の立場。A記者は一応③の立場なのだろうが、意図のあるなしを判断基準として同一レイヤで中止と失敗をとらえているので、おそらく④の選択肢など念頭になく質問していると思う。ただ、この会見後の共同通信の配信の記事をみると見出しは失敗、記事中では中止という表現を使っている。①の立場に近いと思われるものであり、A記者がこの記事を書いたのであればレイヤの違いを意識したということであろうから、それはそれでよかったと思う。
この種の異なるレイヤの概念を同一レイヤでとらえて議論が混乱するという局面は往々にしてみられる。自らを省みても注意したいところである。

「中止」に意図は必要か

A記者は「一般に意図的に止める、計画を途中で意図してやめる時に中止という」として、「中止」であるかどうかを判定する基準として意図の有無を挙げている。日本国語大辞典によると中止とは「中途でやめること。また、予定していたことがらを前もってとりやめること。または、一旦とりやめること。」である。この語釈では意図という言葉は明示されていないものの「やめる」という言葉には主体の意図性が含まれている感じはある。A記者はこれを失敗とも関係づけているので話がややこしくなるのであるが、中止だけを独立してとらえるのであればその問題意識はそれなりに自然なものであると思う。
これに対し、岡田Pは、直接的なは答えではないが「ロケットというものは基本安全に止まる状態でいつも設計しているので、その設計の範囲の中で止まっている」という発言をしている。設計段階からいわゆるフェイルセーフ機構を組み込んでいくというのは当然であるし、それが機能して安全が保たれた場合に、それは意図した状況であるという趣旨の発言と受け取っていいだろう。
要は「意図」の範囲をどうとらえるかという問題である。ロケットに限らず現代の様々な巨大システムの運用をしていく際に、異常に際して、常に人間が中止の判断をするという牧歌的な想定はおよそ現実的ではなく、そのためにフェールセーフ機構が重要。A記者的な「中止には意図が介在すべき」という立場をとったとしても、今回の事例は、意図した中止といって差し支えないと思う。

「失敗」以前の問題

A記者は失敗に関して「意図的ではなく止まったということは一般にいう失敗ではないかと思うがどうか?」と発言している。中止/失敗を「意図」を基準として二者択一するという自分の作った枠組みの中で何とかして「失敗」という答えを引き出したいという明らかな誘導尋問で、記者としてやってはダメな類の質問筆頭である。せめて「結果として打ち上げに至らなかった点では、本日の打ち上げは失敗という評価についてどう考えるか」くらいなら質問としてはギリギリセーフかなあ。
ただ、最後の「システムで対応できる範囲の異常だったけれども、考えていなかった異常が起きて打ち上げが止まったということですね。」「それは一般に失敗といいます」という部分は、そもそも質問ですらない。特に最後の一言は弁護のしようもない「捨て台詞」。「失敗」について聞く以前の失敗発言である。

攻防の機微

A記者が「確認だが、システムで対応できる範囲の異常だったけれども、考えていなかった異常が起きて打ち上げが止まったということですね。」と聞いたのに対し、岡田Pが「ある種の異常を検知したら止まるようなシステムの中で、安全、健全に止まっているのが今の状況。」と答えている。内容的には二人とも同じことを言っているのだが、「けれども」という逆接と「考えていなかった異常」という想定外を強調することで「止まった」ことの深刻さを強調しようとするA記者に対し、「ある種の異常」と異常の程度を中立化させつつ「安全、健全」を強調することで深刻さを打ち消そうという岡田P。二人の瞬時の攻防はなかなか見ごたえがある。

「一般に」は概して一般ではない

A記者は、一連のやりとりの中で「一般に」という言葉を3回使っている。おそらく口癖なのだと思う。個人的に「一般に」というのは要注意ワードだと思っている。自分自身に照らしてみてもそうなのだが、己の意見を強調したいほど「一般に」という言葉をつかいがちなような気がしている。虎の威を借りるではないが、「一般に」という言葉に含意される抽象的多数者の威を借りたいという意識の表れではないかと思う。己固有の意見として主張するだけの自信のなさの裏返しといっていいかもしれない。この点についてもA記者の発言はいろいろ学びになる。

それは一般に失敗という

 今回の会見に関してA記者は相当の批判にさらされている。ご本人の責任に帰するところが大であるし、共同通信という有力メディアの看板を背負っての発言でもあり、やむを得ない部分もある。
 とはいえ、古典的名作「どうみても~です。本当にありがとうございました。」を髣髴とさせる新たなインターネットミーム「それは一般に失敗といいます。ありがとうございます。」の作者として名前を残すことになったことはややお気の毒ではある。今後このミームがどの程度ネットで流布されるかはわからないが、本ミームが流通する限りA記者の名前も語られ続けることになるわけである。
 ネット時代においては、カメラのある場所での言動や立ち居振る舞いについていったんそれが問題視されると、自分では対応できる範囲の反応だと思っていても、考えていなかった規模の反応へと増殖し、自身の今後の社会活動に影響を与えることが常にありうる。それを一般に失敗というのであろう。もって他山の石としたい。


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